「なぜかここで自己紹介」/『ピース』

私=スズカツの中には、演出家と作家と観客の3人が住んでいる。

演出家のスズカツは、かなりストライクゾーンが広く、ストレートプレイにミュージカル、コンサートにダンス、ウエルメイドに映画・小説・マンガ原作と、これまで舞台物でやらなかったジャンルはほぼない。上演台本も基本的に演出家のスズカツが書いている。だから、演劇の仕事の大部分は、演出家のスズカツがやっていることになっている。

それに対して、作家のスズカツは、驚くほどストライクゾーンが狭く、書きたいことにかなり偏りがある。もう35年もやってきて、『LYNX』と『シープス』と『ウエアハウス』、そして今回の『ピース』の元になる『セルロイドレストラン』の4シリーズをひたすら書き直し続けている。書き直すのは、時代感覚とかを意識しているわけではない。その時々の自分を反映させることを意識している。

また作家のスズカツは要求も強く、イメージに合った役者がキャスティングされないと本を渡さない。だから本を渡したということは、キャスティングに満足しているという証でもあるわけだ。特に、今回の橋本くんと英介さんの組み合わせに、作家スズカツは大満足、ゴキゲンさんなのである。

そうなると演出家スズカツは、今度はとても面倒くさい観客、3番目のスズカツを満足させなければならない。こいつは、普段、音楽を聴いてるかサッカーを見てるだけで、スズカツ作品以外ほとんど芝居を見ないで、ぼーっと暮らしている。そのくせ、自分は何でもわかっている風な口うるさいヤツで、しかも結構ミーハーでいつもキャストは大絶賛するのに、本にも演出にもダメを出したがる困り者なのだ。

ところが演出家のスズカツは観客のスズカツが大好きで、観客スズカツを喜ばせるために、いろいろ考えるのである。だが演出家のスズカツは、もともと「他力本願」をモットーにしているので、いろいろ考えてはみるものの、考えるだけで自分でどうにかしようとはあまり思わない。

「オレがゴチャゴチャ要求するより、はっしーと英介さん、それに吾郎くんとグレースさん──この4人に任せて、うまくいくように祈っていればいいのでは?願えば叶う。そうに決まってる、間違いない!」

というわけで、3人のスズカツはニヤニヤしながら、毎日楽しく稽古を見ているのであった。

ピース!

 

本日はご来場、誠にありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

ご挨拶/二十面相

ご挨拶

 

僕には、ある作家を一時期に集中して読む傾向がある。

数年前の江戸川乱歩は、そのひとりだ。

発表順に読んだので、『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』『心理試験』などの本格派推理小説から始まって、『赤い部屋』『人間椅子』『鏡地獄』などの奇抜な犯罪小説を経て、『怪人二十面相』に行き着いた。

怪人二十面相』以前の、いわゆる大人向けの作品は、性倒錯や残虐趣味に溢れ、独特の歪んだ世界観に圧倒される。

どんな変態・変質者が書いているのだろう?

乱歩は、作家として成功していなかったら、間違いなく犯罪者になっていたのではないか?

そんなことを思わせる反社会的内容の連続。

それが突然、子供向けの「怪人二十面相シリーズ」なのである。

名探偵明智小五郎と小林芳雄少年率いる少年探偵団が、世紀の大怪盗二十面相をやっつける、勧善懲悪的一代娯楽作品!

それ以前の作品とのとてつもないギャップを感じた。

実は、当時作品の売れ行きが悪くなる一方だった乱歩は、売れる作品を書かなければならなくなって、子供向けの作品に手を出したらしい。

それが爆発的に売れたものだから、乱歩は次々と執筆し、シリーズは29作品にも及んだ。

だがシリーズを何作も読み進めていくと、やはり乱歩は乱歩であったのである。

怪人二十面相シリーズ」も、やはりドロドロとした世界観に貫かれている。

中でも、主要登場人物の明智小五郎、二十面相、小林芳雄少年には、一般性のかけらもない。

はっきり言って、三人とも異常者である。

そう言えば、シャーロック・ホームズもそうだったなあ。

そんなことを考えていたとき、ビートルズの傑作「I Am The Walrus」の歌詞が頭に浮かんだ。

I am he as you are he as you are me and we are all together

明智は二十面相で、小林は二十面相で、小林は明智で、みんな一緒。

そういうことなのだ!

そして、その明智だか小林だか二十面相だかは、僕の中にもしっかりといるのだった。

 

ウイズ・コロナになって一年以上経った。

だが、「作りたい人」と「見たい人」がいる限り、演劇の灯は消えたりしない、という確信がある。

演劇を存続させるのは、個人個人の意志の問題なのである。

 

本日はご来場、誠にありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)



『Kappa』演出/鈴木勝秀(suzukatz.)

『Kappa』演出/鈴木勝秀(suzukatz.)

 

3月の初旬、『Kappa』のヴィジュアル撮影があったので、都内某所のスタジオへ見に行った。

ヴィジュアル撮影は、基本的に遠巻きに見ているだけなので、僕が演出家であることに気づかない関係者もいたりする。

今回もそんな感じで眺めていたのだが、かなり収穫があった。

コロナ禍でもあるので、集合写真はNGで全員ソロでの撮影であるから、ひとりひとりをかなり観察できた。

一番の収穫は、特殊メイクもしていないのに、僕にはみんなが河童に見えたことだ。

これは重要なことである。

「河童は人間のメタファーだ」ということを、くどくどと説明しなくても済むからだ。

 

河童というと、体は緑色で、頭に皿があって、甲羅を背負っていて、水かきがあって、口はアヒルのような黄色い嘴(くちばし)、というのが定番イメージであろう。

でも、それをリアルに再現しようとしたり、アーティスティックに構築しようととしたら、とても予算が足りない。

かといって低予算でやったら、ダメなコントになってしまう。

だから、『BOSS CAT』のネコ同様、当初から河童のメイク、扮装はしない、という方向で考えていた。

だが、今回のキャストを集めてみたら、みんな河童っぽいのだ。

芝居では、「言った者勝ち」のところがあるので、河童役が「オレは河童だ!」と言い倒せば、それでOKではあるのだが、全員、河童っぽく見えたのは何よりであった。

 

なかでも織山は、とても河童っぽかった。

第23号は河童ではなく人間の役なのだが、織山の態度や話し方には、芥川の原作に出てくる河童っぽいところがある。

特に目付きは、ちょっとぞっとするムードがある。

チラシの写真を見ていただきたい。

人間じゃないかも──そう感じるかたも、多数いらっしゃるのではないだろうか。

そして僕は、「あ、こいつは第23号だ」とピンときた。

第23号は、人間でありながら、人間社会と相容れないマイノリティの代表者なのだ。

社会に適合している一般的な人間から見ると、異人種であり、河童なのである。

だから、織山に「人間じゃないかも」と思えるムードがあることは、作品的にとてもよかった。

織山なら、「僕はまた河童の国へ帰りたいと思いました。行きたい、のではありません。帰りたい、と思ったのです。」と違和感なく言える──そう思った。

 

僕は演出するにあたって、ピンとくる=直感を重要視している。

稽古場では、「準備が大切!」と常に言い続けているのだが、準備してきたものに捉われずに、直感や無意識を働かせることこそが創造的であり得る。

そこには「どうして?」に対する明確な解答がなくてもいい。

「ピンときたから」でいいのである。

だから、稽古の2ヶ月も前のヴィジュアル撮影の段階で、僕はもうこの芝居は面白くなる、と確信していたのである。

 

その後、舞台美術、衣裳、ヘアメイク、照明、音響などのミーティング(すべてリモート)を重ねるごとに、その確信はさらに強まった。

さらに、大嶋吾郎くんから、音楽デモがいつものように次々と送られてくるころには、まだまだ稽古前にもかかわらず、僕の頭の中で、『Kappa』はほぼほぼ完成してしまった。

だが、それはあまりよくないことなのである。

 

演出家の頭の中にあるイメージに、演技やスタッフワークを近づけていこうとするのは、一番つまらない稽古のやりかたである。

自分のイメージに合わないものには、「ダメ出し」をしてしまう。

そして、役者にもスタッフにもプレッシャーを与え続け、自由な発想を奪ってしまう。

そうなると稽古場から、「ピンときたから」がどんどん消え失せていく。

 

僕が演劇を面白いと思うのは、他者との共同作業だからだ。

稽古開始当初、稽古場は他者と他者が入り乱れ、カオス的状況である。

それが稽古が進むにつれて方向性が定まり、安定した芳醇な時間を生み出していく。

それこそが、演劇の醍醐味なのである。

そのために、稽古場は「自由」でなければならない。

誰かのイメージやヴィジョンを実現させるためにあってはいけない。

で、今回の稽古場はと言うと──僕の頭の中で、ほぼほぼ完成していたと思われた『Kappa』は、取るに足らないものであったことを見せつけてくれたのだった。

 

ウイズ・コロナになって一年。

芝居を作りたいというキャストもスタッフも、そして、こうしてお集まりいただいた観客のみなさんもいる。

「作りたい人」と「見たい人」がいる限り、演劇の灯は消えたりしない。

演劇を存在させるのは、個人個人の意志の問題なのである。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)




『Kappa』上演台本/鈴木勝秀(suzukatz.)

 

『Kappa』上演台本/鈴木勝秀(suzukatz.)

 

中学生の頃、神田の古本市へ行って、「芥川龍之介作品集」全4巻を買った。

まだ三島由紀夫にハマる以前のことだ。

そして、とにかく端から読んでいった。

だから、芥川の主要作品は、だいたい読んでいる。

だが、どれひとつ正確に思い出せない。

果たして、これで芥川を読んだと言えるのだろうか?

そのことに関しては、いずれじっくり考えることにしているので、ここでは先へ進む。

 

さて、今回上演台本を書こうと思って『河童』を読み返したわけだが、とても新鮮に面白く読めた。

さすが文豪である。

まず、リズムがいい。

芥川は英語に精通していたので、意識的にリズムよく読めるように書いていることは、多くの指摘を待たずにもわかる。

リズムがいいので、芥川は音読、暗誦に適しており、芝居の原作に向いている。

是非とも、妙な抑揚をつけたり、ありがちな感情を込めたりせず、リズムを感じて淡々と音読、暗誦をしてみていただきたい。

それだけで、いや、そのほうが、圧倒的に説得力のあるセリフになって、聞く者の想像力を刺激できる。

そして、テンポがいい。

余計な説明は極力避け、感情の部分もとてもクールで、先へ先へと引っ張ってくれる。

長編に小説の醍醐味を感じる読者も多いとは思うが、個人的には断然短編が好みだ。

その点、芥川のテンポ感は、マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンハードバップのごとき疾走感がある。

各センテンスは短く簡潔で、「このフレーズはどこにかかっているんだろう?」とかで悩まされたり、停滞することがない。

また、辻褄合わせの説明や、回りくどい言い回しなどは極力省かれ、最短速度でストーリーを推進していく。

今回、『Kappa』の上演台本を作成するにあたり、芥川のリズムとテンポは、可能な限り再現しようと努めた。

 

演劇は小説と比べて、言葉としての情報量が圧倒的に少ない。

原作のストーリーを再現しようとすると、だいたい失敗する。

だから、小説を原作に芝居を考えるときに重要なのは、どのラインを中心に据えて、どのラインをカットするのか、ということである。

原作をリスペクトしながらも、思い切ったカットをすることができなければ、上演台本は作れない。

幸いなことに、僕はカットが大好きである。

 

僕は作家ではないので、上演台本を書く作業はゲームに近い感覚がある。

リサーチ、サンプリング、カットアップ、リライト、再構成。

誤解を恐れず言えば、自分で書いた部分が、少なければ少ないほど、達成感を感じるのだ。

そして上演台本を書くにあたって、常に意識しているのは「編集」である。

芝居における「編集」を、僕は次のように考えている。

 

既存のテキストからセンテンスやセリフを抜粋し、原作の構成を再構築することで、別のテキストを作り出すこと。

 

編集には、それを担う編集者の考え方が自ずと入り込む。

ある作品を要約するだけで、原作者のものよりも、その作業をした人間の考え方が見えてくる。

編集は、要約だけではなく、カットアップやリライトなどの作業を通して、再構築がなされるわけだから、さらに鮮明に編集者の個性や哲学が明らかになるのである。

だから、たとえ一文字も書かなくても、編集された上演台本には、僕自身が表れていると考えている。

一方、上演台本を作らず、戯曲をそのまま上演するものは、音楽に例えるとカバーやアレンジである。

より作家の考え方、作品意図に近づこうとする作業である。

『河童』全編を朗読で聞けば、そこには芥川が最も大きく浮かび上がってくるだろう。

 

では、今回の『Kappa』は、芥川なのかスズカツなのか?

どちらでもない。

なぜなら、芝居は常に、舞台に立つ役者のものであるべきだし、そうでなければならない。

もしそうでないなら、観客はわざわざ劇場などに足を運ばないだろう。

戯曲や上演台本を入手して読めばいいのである。

芝居は役者!

役者が役をものにしてくれて、はじめて戯曲や上演台本を書いた人間にも目が向くのだ。

 

だが、ご安心していただきたい。

今公演で、第23号もバッグも、しっかりと『Kappa』を自分のものにしてくれた、と僕は思っている。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

 

 

「Mogut=Yellow Submarine?」

「Mogut=Yellow Submarine?」

 

まだコロナ禍になる前、原作を読んで僕が一番最初に考えたのは、「Black Lives Matter」についてだった。そして、キング牧師マルコムX

鈴木舞さんの原作『ハリネズミホテルにようこそ』は、子供向けのハートウォーミングなファンタジーで、政治的主張が強い作品ではもちろんない。しかし、ある著作物は発表された瞬間に著作者の手を離れ、読者のものになる(著作権は別)と僕は考えていて、僕はそのように原作を読んだのだ。

いよいよ舞台化するにあたって、キャスティングが進み、主役のモグーに、塚田くんが起用されることになった。僕にとって3人目のABC-Z。

今度は俄然、明るく、ナンセンスな芝居を作りたくなった。ビートルズのアニメ映画『イエローサブマリン』ような、そんな芝居を作りたいと思った。

同時にコロナ禍の現在、それを無視することはできない。演劇は、現在と結びついていなければ、意味はないからだ。

そんなことをあれこれ考え、稽古で試していたら、こういう芝居ができあがった。

 

劇場に足を運んでいただき、本当に感謝しております。

観客のみなさんがいる限り、演劇の灯は消えたりはしないと信じております。

どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。

鈴木勝秀(suzukatz.)

ロック・リーディング」

 

僕はリーディング公演では、いつも音楽を作ろうと思っている。

いや、芝居を作るときもそうかもしれない。

ずっと演劇は聴覚のメディアだと思ってきたし、僕にとって「音」は、演劇を作るうえでとても重要なのである。

ただし、ここで言う「音楽」とは、かなり広義の音楽であって、ビートルズの「レボリューションNo.9」やアレン・ギンズバーグの詩の朗読も音楽に含める、と考えていただければわかりやすいかも。

まあ、空調の音や、足音が音楽に聞こえるかたには、特に説明の必要はないだろう。

 

さて、あくまで個人的見解なのだが、ギリシア悲劇もオペラも、能楽や歌舞伎などの舞台芸能も、みな音楽だと思う。

シェイクスピアのセリフだって、詩(うた)と言っても過言ではないくらい音楽である。

そして観客はそれを楽しんできたのである。

大事なのは、俳優の声色、声量、リズム感であって、作品の意味だとか深さだとかではない──あ、俳優の顔は別の意味で大事。

ところが明治以降、西洋戯曲が入ってきて、それを翻訳し西洋文化を学ぼうとしたところで、演劇は急激に文学になった。

ストーリーやテーマ、作家の主張のほうに目が向けられ、登場人物やセリフの意味、作品解釈が重要視されるようになった。

もちろんそれもいい。

とても勉強になる。

だが、僕が作る演劇は、あくまで音楽でありたい──そう思っている。

 

ロック・リーディング」と冠した今回の『幸福王子』は、音楽ライブのつもりで作った。

キャストはヴォーカリスト

もちろん王子もツバメも歌う。

大嶋吾朗くん作曲の楽曲は、どれもロックでとても音楽である。

だが、セリフ部分も歌として聞いていただきたい。

ラストの王子の語りはきっと胸にしみ入るだろう。

 

こんな時期だから、歓声はお控えいただきたいのだが、手拍子などは大歓迎。

ノリノリで見ていただけたら幸福王子である。

本日はご来場、誠にありがとうございました!

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

「箱庭」を作る

 

30代後半に芝居を3年間休んでいる間、僕は心理学の本をかなり読んだ。

何のために読んだかというと、自分によりフィットした演出方法のヒントを見つけるためだった。

そこで、河合隼雄さんの「箱庭療法」に出会った。

それは驚くべき療法で、治療者は何もせず、ただクライエント(心理療法を受ける人)が箱庭を作るのを見ているだけ。

そして、見ているだけでクライエントはどんどん回復していく、というのだ。

河合隼雄さんはすでに故人であるが、日本人として初めてユング研究所でユング派分析家の資格を取得した心理学者で、京大の名誉教授、文化庁長官も勤められた方だ。

インチキ・オカルト教団の教祖ではない。

本格的にアカデミックな方法論の第一人者なのだ。

僕はすっかり「箱庭療法」の虜になって、思いっ切り思考のジャンプをして、稽古を見ているだけで、自分の見たい芝居が作れないものか考え始めた。

そして、詳細はここでは省くが、僕はそれが可能であることを確信した。

それ以来、「見ているだけ」という演出法を実践している。

この演出方法を始めた頃、俳優が舞台という「箱庭」を作るのを見ているのだから、当然僕自身は河合さんの立ち位置──治療者のポジションにいると考えていた。

そして、なるべく俳優が意識的にやっていることではなく、無意識にやっていることを見ようとした。

わかりやすく言えば、俳優の技術に焦点を当てるのではなく、心の動きに焦点を当てる、ということだ。

セリフや段取りを間違えたり、標準語のイントネーションでなかったり、滑舌が悪いことなどは気にせず、心の動きに注目するのだ。

そうすれば同じセリフの間違いも、ただセリフが入っていないのか、それとも無意識にその言葉、言い回しを拒否しているのか──そのどちらなのかがわかる。

毎日だいたい同じ時間に、同じシーンの稽古をすることで、それは見えやすくなる。

それを踏まえて稽古をくり返していくと、戯曲のストーリーとは別の、各俳優の物語が現れてくる。

それをつかまえれば、もうこっちのものである──

ところが、何度かやっているうちに、僕が見ていた物語は、どうも俳優のものではなく、僕自身の物語なのではないか、という疑念が沸き起こってきた。

舞台という「箱庭」には、ほかの誰でもない僕自身が投影されているのだ。

それも無意識の自分。

「オレは治療者のポジションにいたはずなのに、実はクライエントだった?」

まさかの大逆転劇。

さらに続けているうちに、それは絶対間違いないと確信した。

というわけで、僕は何十年もかけて舞台という「箱庭」を作って、自分の無意識と向き合おうとしている。

では、僕がクライエントであるなら、治療者──僕を見ている人はだれなのだ?

 

ウイズ・コロナになってから、リーディングの公演は配信も含め3本やったが、芝居は今回の『YARNS』が最初である。

戦争や災害で劇場がなくなったわけではないし、芝居を作りたいというキャストもスタッフも、そしてこうしてお集まりいただいた観客のみなさんがいる。

決して壊滅的状況ではないし、こんなことで演劇の灯は消えたりしない。

むしろ芝居に対する欲求は、とても高くなっているようにさえ感じている。

しかし、劇場が以前の状態に戻るには、まだしばらく時間がかかる。

一方、この状況だからこそできる演劇的「実験」もある。

そして僕は「実験」が大好きなので、モチベーションはかなり高まっている。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)