『Kappa』上演台本/鈴木勝秀(suzukatz.)

 

『Kappa』上演台本/鈴木勝秀(suzukatz.)

 

中学生の頃、神田の古本市へ行って、「芥川龍之介作品集」全4巻を買った。

まだ三島由紀夫にハマる以前のことだ。

そして、とにかく端から読んでいった。

だから、芥川の主要作品は、だいたい読んでいる。

だが、どれひとつ正確に思い出せない。

果たして、これで芥川を読んだと言えるのだろうか?

そのことに関しては、いずれじっくり考えることにしているので、ここでは先へ進む。

 

さて、今回上演台本を書こうと思って『河童』を読み返したわけだが、とても新鮮に面白く読めた。

さすが文豪である。

まず、リズムがいい。

芥川は英語に精通していたので、意識的にリズムよく読めるように書いていることは、多くの指摘を待たずにもわかる。

リズムがいいので、芥川は音読、暗誦に適しており、芝居の原作に向いている。

是非とも、妙な抑揚をつけたり、ありがちな感情を込めたりせず、リズムを感じて淡々と音読、暗誦をしてみていただきたい。

それだけで、いや、そのほうが、圧倒的に説得力のあるセリフになって、聞く者の想像力を刺激できる。

そして、テンポがいい。

余計な説明は極力避け、感情の部分もとてもクールで、先へ先へと引っ張ってくれる。

長編に小説の醍醐味を感じる読者も多いとは思うが、個人的には断然短編が好みだ。

その点、芥川のテンポ感は、マイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンハードバップのごとき疾走感がある。

各センテンスは短く簡潔で、「このフレーズはどこにかかっているんだろう?」とかで悩まされたり、停滞することがない。

また、辻褄合わせの説明や、回りくどい言い回しなどは極力省かれ、最短速度でストーリーを推進していく。

今回、『Kappa』の上演台本を作成するにあたり、芥川のリズムとテンポは、可能な限り再現しようと努めた。

 

演劇は小説と比べて、言葉としての情報量が圧倒的に少ない。

原作のストーリーを再現しようとすると、だいたい失敗する。

だから、小説を原作に芝居を考えるときに重要なのは、どのラインを中心に据えて、どのラインをカットするのか、ということである。

原作をリスペクトしながらも、思い切ったカットをすることができなければ、上演台本は作れない。

幸いなことに、僕はカットが大好きである。

 

僕は作家ではないので、上演台本を書く作業はゲームに近い感覚がある。

リサーチ、サンプリング、カットアップ、リライト、再構成。

誤解を恐れず言えば、自分で書いた部分が、少なければ少ないほど、達成感を感じるのだ。

そして上演台本を書くにあたって、常に意識しているのは「編集」である。

芝居における「編集」を、僕は次のように考えている。

 

既存のテキストからセンテンスやセリフを抜粋し、原作の構成を再構築することで、別のテキストを作り出すこと。

 

編集には、それを担う編集者の考え方が自ずと入り込む。

ある作品を要約するだけで、原作者のものよりも、その作業をした人間の考え方が見えてくる。

編集は、要約だけではなく、カットアップやリライトなどの作業を通して、再構築がなされるわけだから、さらに鮮明に編集者の個性や哲学が明らかになるのである。

だから、たとえ一文字も書かなくても、編集された上演台本には、僕自身が表れていると考えている。

一方、上演台本を作らず、戯曲をそのまま上演するものは、音楽に例えるとカバーやアレンジである。

より作家の考え方、作品意図に近づこうとする作業である。

『河童』全編を朗読で聞けば、そこには芥川が最も大きく浮かび上がってくるだろう。

 

では、今回の『Kappa』は、芥川なのかスズカツなのか?

どちらでもない。

なぜなら、芝居は常に、舞台に立つ役者のものであるべきだし、そうでなければならない。

もしそうでないなら、観客はわざわざ劇場などに足を運ばないだろう。

戯曲や上演台本を入手して読めばいいのである。

芝居は役者!

役者が役をものにしてくれて、はじめて戯曲や上演台本を書いた人間にも目が向くのだ。

 

だが、ご安心していただきたい。

今公演で、第23号もバッグも、しっかりと『Kappa』を自分のものにしてくれた、と僕は思っている。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)