ロック・リーディング」

 

僕はリーディング公演では、いつも音楽を作ろうと思っている。

いや、芝居を作るときもそうかもしれない。

ずっと演劇は聴覚のメディアだと思ってきたし、僕にとって「音」は、演劇を作るうえでとても重要なのである。

ただし、ここで言う「音楽」とは、かなり広義の音楽であって、ビートルズの「レボリューションNo.9」やアレン・ギンズバーグの詩の朗読も音楽に含める、と考えていただければわかりやすいかも。

まあ、空調の音や、足音が音楽に聞こえるかたには、特に説明の必要はないだろう。

 

さて、あくまで個人的見解なのだが、ギリシア悲劇もオペラも、能楽や歌舞伎などの舞台芸能も、みな音楽だと思う。

シェイクスピアのセリフだって、詩(うた)と言っても過言ではないくらい音楽である。

そして観客はそれを楽しんできたのである。

大事なのは、俳優の声色、声量、リズム感であって、作品の意味だとか深さだとかではない──あ、俳優の顔は別の意味で大事。

ところが明治以降、西洋戯曲が入ってきて、それを翻訳し西洋文化を学ぼうとしたところで、演劇は急激に文学になった。

ストーリーやテーマ、作家の主張のほうに目が向けられ、登場人物やセリフの意味、作品解釈が重要視されるようになった。

もちろんそれもいい。

とても勉強になる。

だが、僕が作る演劇は、あくまで音楽でありたい──そう思っている。

 

ロック・リーディング」と冠した今回の『幸福王子』は、音楽ライブのつもりで作った。

キャストはヴォーカリスト

もちろん王子もツバメも歌う。

大嶋吾朗くん作曲の楽曲は、どれもロックでとても音楽である。

だが、セリフ部分も歌として聞いていただきたい。

ラストの王子の語りはきっと胸にしみ入るだろう。

 

こんな時期だから、歓声はお控えいただきたいのだが、手拍子などは大歓迎。

ノリノリで見ていただけたら幸福王子である。

本日はご来場、誠にありがとうございました!

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

「箱庭」を作る

 

30代後半に芝居を3年間休んでいる間、僕は心理学の本をかなり読んだ。

何のために読んだかというと、自分によりフィットした演出方法のヒントを見つけるためだった。

そこで、河合隼雄さんの「箱庭療法」に出会った。

それは驚くべき療法で、治療者は何もせず、ただクライエント(心理療法を受ける人)が箱庭を作るのを見ているだけ。

そして、見ているだけでクライエントはどんどん回復していく、というのだ。

河合隼雄さんはすでに故人であるが、日本人として初めてユング研究所でユング派分析家の資格を取得した心理学者で、京大の名誉教授、文化庁長官も勤められた方だ。

インチキ・オカルト教団の教祖ではない。

本格的にアカデミックな方法論の第一人者なのだ。

僕はすっかり「箱庭療法」の虜になって、思いっ切り思考のジャンプをして、稽古を見ているだけで、自分の見たい芝居が作れないものか考え始めた。

そして、詳細はここでは省くが、僕はそれが可能であることを確信した。

それ以来、「見ているだけ」という演出法を実践している。

この演出方法を始めた頃、俳優が舞台という「箱庭」を作るのを見ているのだから、当然僕自身は河合さんの立ち位置──治療者のポジションにいると考えていた。

そして、なるべく俳優が意識的にやっていることではなく、無意識にやっていることを見ようとした。

わかりやすく言えば、俳優の技術に焦点を当てるのではなく、心の動きに焦点を当てる、ということだ。

セリフや段取りを間違えたり、標準語のイントネーションでなかったり、滑舌が悪いことなどは気にせず、心の動きに注目するのだ。

そうすれば同じセリフの間違いも、ただセリフが入っていないのか、それとも無意識にその言葉、言い回しを拒否しているのか──そのどちらなのかがわかる。

毎日だいたい同じ時間に、同じシーンの稽古をすることで、それは見えやすくなる。

それを踏まえて稽古をくり返していくと、戯曲のストーリーとは別の、各俳優の物語が現れてくる。

それをつかまえれば、もうこっちのものである──

ところが、何度かやっているうちに、僕が見ていた物語は、どうも俳優のものではなく、僕自身の物語なのではないか、という疑念が沸き起こってきた。

舞台という「箱庭」には、ほかの誰でもない僕自身が投影されているのだ。

それも無意識の自分。

「オレは治療者のポジションにいたはずなのに、実はクライエントだった?」

まさかの大逆転劇。

さらに続けているうちに、それは絶対間違いないと確信した。

というわけで、僕は何十年もかけて舞台という「箱庭」を作って、自分の無意識と向き合おうとしている。

では、僕がクライエントであるなら、治療者──僕を見ている人はだれなのだ?

 

ウイズ・コロナになってから、リーディングの公演は配信も含め3本やったが、芝居は今回の『YARNS』が最初である。

戦争や災害で劇場がなくなったわけではないし、芝居を作りたいというキャストもスタッフも、そしてこうしてお集まりいただいた観客のみなさんがいる。

決して壊滅的状況ではないし、こんなことで演劇の灯は消えたりしない。

むしろ芝居に対する欲求は、とても高くなっているようにさえ感じている。

しかし、劇場が以前の状態に戻るには、まだしばらく時間がかかる。

一方、この状況だからこそできる演劇的「実験」もある。

そして僕は「実験」が大好きなので、モチベーションはかなり高まっている。

 

本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。

心より感謝致しております。

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

ウエアハウス/booklet、るぽえ/booklet

 
1993年に『ウエアハウス』というシリーズを始めて、もう27年目になる。
このシリーズは、エドワード・オールビーの『動物園物語』をひたすら書き直して、まったく違うテキストを作り上げようという試みである。
ウエアハウス』というタイトルをつける以前から、『動物園物語』のセリフのカットアップは行っていたので、人生の半分以上、このオールビーの戯曲と格闘してきたわけである。
こういうのをライフワークとか言うのかもしれないが、単に飽きっぽくない性格なんだと思う。
やはり30年前に『LYNX』という芝居で現れた、「オガワ」という男についても、いまでもまだ考え続けている。
基本的に好きなものはほとんど変わらない。
同じことをずっとしてられるし、あまりブレない体質なんだと思う。
それと作るのは芝居であって、一人っきりで格闘しているわけではないから、詩人や画家など個人作業の方々に比べれば、はるかに開かれてもいるし。
だから、僕はプロデューサーに出会うたびに、『ウエアハウス』の最新版テキストを渡して、上演の機会を探っている。
撒き餌作戦である。
今回、「る・ひまわり」が食いついた。
 
「スズカツさん、『ウエアハウス』弊社でやらせてください」
「ありがとうございます」
「前回は登場人物が3人だったようですが、基本に戻って2人バージョンでもよろしいですか?」
「もちろん」
「では、少しご相談もあるので、お打ち合わせのお時間をいただけますか?」
「ご相談?」
「はい」
 
何はともあれ、僕のライフワーク的『ウエアハウス』は、こうしてまた一歩足を踏み出すことができた。
 
鈴木勝秀(suzukatz.)
 
 
『る・ぽえ』
 
というわけで、向こう見ずな「る・ひまわり制作陣」のおかげで、僕のライフワーク的長期シリーズ『ウエアハウス』は継続され、ここに上演の機会を得た。だが、ハードルを上げるのが大好きな「サディスティック・る・ひまわり」が、ただすんなりと『ウエアハウス』をやらせてくれるはずはなかった。
 
「ちなみに今回は、『ウエアハウス』ともう1本同時に作ってみませんか?3本立てシリーズの新作を、『ウエアハウス』と同時上演!」
「え?」
「弊社とスズカツさんのコラボ・シリーズも、『リヴァ・る』、『ド・るーク』と来たわけですから、やはり3本立てもやりたいなあ」
「それって、もう1本3本立ての新作書いて、『ウエアハウス』と同時に稽古して、同じ劇場で同じ舞台美術で上演するってことですよね」
「はい……あ、やっぱり無理ですかね、スズカツさんでも」
「いや、できます、できます、もちろんできます。でも、かなり実験的だなあ」
「実験公演お好きでしたよね」
「ええまあ」
「じゃ、やりましょう!実験、実験、実験〜!」
「は、ははは」
「あ、今回のお題は、スズカツさんのお好きに選んでください」
「じゃあ、詩人にします。タイトルは……『る・ぽえ』!」
「な〜んだ、もう考えてたんですね。ありがとうございます!」
 
というわけで、またしても僕は、「サディスティック・る・ひまわり」にチャレンジャー・スイッチを入れられてしまったのであった。そしてこれまで同様、刺激的で幸福な日々を送れたのだった。まずいな、このM的快感が完全にくせになりつつある。
 
「次回はですね……」
 
鈴木勝秀(suzukatz.)
 
 
 
 

『THE BLANK!』〜近松門左衛門空白の十年〜/ booklet

「作り話」

僕は戯曲を常にテキストとして扱ってきたので、作家個人に対する興味がどちらかというと薄いほうである。向き合うのは純粋に作品だけ。

ところが、今回の『THE BLANK!』のベーシック・テキスト『口伝 近松門左衛門の真実』を、3年前にプロデューサーに渡されて一読した途端、これまで自分には関係ないなと思っていた、近松門左衛門の生涯に俄然興味を持ってしまった。

門左衛門の子孫である、近松洋男さんがお書きになられた『口伝 近松門左衛門の真実』は、それこそフィクションかと思われるほどの奇想天外なストーリーで、これはもう何が何でも舞台化してみたいと思った次第である。

近松門左衛門」「大石内蔵助」「後水尾上皇」「平戸松浦党」「公界(くがい)」「赤穂塩」「塩の道」「西廻り航路」「鎖国令」「ユダヤ人老師」「スペイン詩劇」

キーワードを並べただけでも、その予想もつかない広がりが伝わるのではないだろうか。

最初に上演台本を読んだキャストもスタッフも、すぐに知的好奇心が刺激され、門左衛門の生きた時代を各自研究し始めた。現在稽古場は歴史研究会のような状態である。

だが、門左衛門の二十代に関しては、正式な資料がまったく残されていない。空白の十年なのだ。

だから『THE BLANK!』歴史研究会の面々は、あれこれ想像しなくてはならない。

しかし想像力さえあれば、思わぬ歴史物語を生み出すことができる。SFならぬHF(ヒストリカル・フィクション)だ。その物語は作り話かもしれない。だが"作り話"をすることは、個人的に何より楽しいことなのである。

鈴木勝秀(suzukatz.)

 

ダルメシアンズ@グレープフルーツムーン(三軒茶屋) (190731)

ダルメシアンズ@グレープフルーツムーン三軒茶屋

(190731)

 


大嶋吾郎(G、Vo)と久保田陽子(Vo)の22年も続くヴォーカル・ユニット。

バックは常に超一流。

今回は以下の手練れ。

笹路正徳(Key)

伊丹雅博(G)

沖山優司(B)

Grace(Ds,Per)

村上ポンタ秀一(Ds)

 


客入れBGMはトッド・ラングレン

定時になるとサティのジムノペディが流れる。

しばらく経つとピアノのメロディにヴォイスが絡みつく。

そして痙攣を起こしたように、ピアノのフレーズがリピートする。

このライブのために作られたものらしい。

こういう音作品を聞かされると、演出家としては何かやりたくなってしまうのだが、それは余計なこと。

このオーバーチュアの間に、ポンタさんを先頭に、メンバーが位置に着く。

音が切れた瞬間に、『R&J』のオープニング曲の生演奏。

ツインドラムが凄まじい。

『R&J』では、ルー・リード風だったが、今日のヴァージョンはキング・クリムゾン風に感じた。

ライブで音を追求しているという印象。

まず演奏者全員が、今そこで鳴っている音をちゃんと聞いていることの重要性を再認識。

自分の演奏のためではなく、瞬間的に消えていく音を聞いて、それに反射的とも言えるスピードで反応している。

レコーディングされたものを、楽譜を頼りに再現するライブとは正反対。

曲のフォーマットはしっかりしているのに、演奏はかなり即興的。

それも個々人の蓄積された音楽知識、テクニックの中から、次々と最良なものが選び出され、実際に音となる。

ゆえに、全員、研究者のような顔つき。

こちらも、実験室で手練れの研究者(ミュージシャン)が、音楽をどのように作っていくのかを見学しているような感覚。

ヘビメタ・クイーン陽子姉も耳を凝らしている。

とにかく全編にわたってリズムが完璧。

ゆえにすべての曲がグルーブしている。

個人的に芝居に求めているものがここにある。

 


ライブの中盤、スズカツ芝居のサウンドトラックから5曲。

『Boss Cat』Where’s My Throne

GANTZ』Izumi

『R&J』The Fence/Love At First Sight

『6週間のダンスレッスン』God Only Knows

どれもオリジナルとは全然違うテイストになっていたけれど、なかでもIzumiは凄かった。

何だろう、超絶インタープレイって言うのだろうか。

「今」でしか聞けないもの。

演奏終了後、衝撃だけが記憶されている。

絶対に芝居のBGMにはできない。

だが、この衝撃を芝居の形にすることはできる。

演技として表現させることもできる。

そうやって、音楽と芝居が行ったり来たりするのがいい。

このスズカツ芝居音楽コーナーは、個人的に特別なものであったのは言うまでもない。

ほかには、以下のような曲があった。(個人的記憶)

ホール&オーツ「Kiss On My List」

レッド・ツェッペリン「What Is And What Should Never Be」

ジャパン「The Unconventional」

スティービー・ワンダー「I Wish」

さらに数曲演奏されたが、誰の何という曲かはわからず、確認もせず。

トーク(吾郎くんのこれが異様に和む)を交えて、休憩なしで1時間40分くらい。

個人的にはベストな長さ。

 


吾郎くんはダルメシアンズを「アマチュア・バンド」だと強調する。

それはこれで食ってないということ。

ゆえに聴衆に媚びることなく、好きなように演奏する。

「このくらいの地下でこっそりやるのがいいのかもね」と吾郎くんは言う。

本当に好きなものは隠される。

しかし、パフォーミング・アートが完全に隠されてしまうということは、実は起こり得ない。

どこからか漏れて、どこかへ伝わる。

じゃあ、どこかのスタジオで、誰にもオープンにせずにやればいいのではないか、というご意見もあるかもしれない。

だが、それは余計なお世話。

現に、観たい人、聴きたい人は、毎回いるのだ。

 

1903-ドルーク/booklet-190215

「シリーズ化へ向けて」

2016年に、る・ひまわりから『僕のリヴァ・る』のオファーを受けたとき、僕は試されているのかと思った。

「テーマは兄弟です。お題は、「乳幼児と新生児」「ゴッホとテオ」「盲目のジェロニモとその兄」の3つ。これを2時間以内のオムニバス芝居に仕立ててください。ちなみに、登場人物は4人です」

普通僕への仕事のオファーは、「劇場があるのですが、オリジナルをやりませんか?」か「この戯曲の演出をお願いしたいのですが、いかがでしょう?」のどちらかだ。
ところが『僕のリヴァ・る』は、戯曲はないし、上演台本を書かなくてはならないけど、縛りがめちゃめちゃキツイのだ。
しかもタイトルだけは、すでに『僕のリヴァ・る』という、ちょっと意味不明なものに決まっていた。

「リヴァルはスペイン語でライバルです。兄弟って最初のライバルですよね」

る・ひまわりは、芝居の宣伝をする会社だが、芝居の制作もやっているという認識はあった。
僕の芝居の宣伝業務も、何本も担当してくれていた。
ちゃんとした会社だ。だが、このオファーは尋常じゃない。
とはいうものの、尋常でないことにかけては、僕だってそう引けを取らないつもりだ。
無理難題を与えられたほうが、やる気が出るという特異体質だ。
だから話を聞いていて、僕の頭の中では「これって大変かも」というより、「これっていろんな実験ができるかも」という考えの方が強くなっていった。
「実験、実験、実験〜」
僕は何より実験が大好きなのだ。というわけで、僕はオファーを引き受け、結果的にとても充実した芝居ができた。

「またやらせてくれないかなあ」

そんな僕の願いは、ここにに叶った。

「タイトルは『僕のド・るーク』。テーマは友だちです。お題は、「樹齢何百年にもなる桜の木と少年」、「サリエリモーツァルト」、夏目漱石の『こころ』」の3つ。これを2時間以内のオムニバス芝居に仕立ててください。で、登場人物は5人です」
「はいはい」
「それから、Wキャストを2組入れます。同じ演技をさせるんじゃなくて、キャストが変わると芝居も変わることを見せてください」
「え?」

ハードルが上がってた……まあ、いいか、シリーズ化してくれれば。

鈴木勝秀(suzukatz.)

1904-hymns/booklet

『直感 Intuition』

 

誰かが発したメッセージを理解するためには、3つの段階がある。

(1)フレーム・メッセージを理解する。

(2)外部メッセージを理解する。

(3)内部メッセージを理解する。

これを演劇作品に置き換えると、次のようになる。

(1)「これは演劇作品です。もし可能なら理解してください」というメッセージである。

(2)「演劇作品を理解するには、いくつか解読メカニズムを見つけなければなりません」というメッセージである。

演劇作品の解読メカニズムとは、まず上演作品の言語を理解すること。つまり、日本語で上演されている場合は、日本語の習熟が必要になる。だが、演劇作品であるがゆえに、舞台美術、衣裳、照明、音楽・音響──そして何より俳優の演技を理解することが、日本語の習熟と同等、あるいはそれ以上に重要である。

(3)あとは、各自がその能力を駆使して、その作品を理解すればよろしい。

つまり重要なのは、(2)の外部メッセージの理解なのである。

 

 クロエ「難しい言い方するな」

 オガワ「それほど難しくもないだろ」

 クロエ「おまえの言い方の問題だ。芝居はいろんなとこ見て楽しんでね、ってことだろ」

 オガワ「いや……」

 

理解するというのは、ルールを知ることである。

ルールがわからなければ、どんなに使用されている言語に習熟していても、そこで行われていることを理解することはできない。

一方で、ルールさえ理解してしまえば、男が女を演じることも、外国人を演じることも、抽象舞台であることも──とにかく何でも受け入れることはできるし、理解することもできるし、感情移入することもできる。

となると、演劇もサッカーのようになるべく簡単なルールを設定して、多くの人々が参入しやすいもののほうがいいということになる。

実際に、戯曲は24時間以内の、一つの場所で起こる、筋が一つの物語を扱わねばならないという「三一致の法則」というものも存在した。

ところが、シェイクスピアはすでにそのルールを無視していたし、ローカル・ルールは多数生まれる。

そして、演劇のルールは言語化されていないもののほうが多く、特に俳優が独自に持っている演技をするにあたってのルールを理解することは難しい。

たとえば、今作に出演している中山祐一朗のルールを理解することは、そう簡単にはできない。

 

 クロエ「ほら、まただ」

 オガワ「何?」

 クロエ「なんで、わざわざ難しく言うんだ?祐一朗は変なことを考えてるから面白い──でいいだろ」

 オガワ「でも……」

 

いずれにしろ、演劇の各作品のルールを理解することは難しい。

となると、観客が「内部メッセージ」を本当の意味で理解することなど、到底不可能なのかもしれない。

いやそれどころか、実際舞台に立っている人間にすら、それはできていないのかも……

 

アツヒロ「オレ、スズカツさんが何考えてるか、『直感』でわかるんですよね!」

スズカツ「……」

 

そういうことなのである。

ちょっと涙出そうになった。

 

鈴木勝秀(suzukatz.)