『ソーセージ』ごあいさつ
『ソーセージ』ごあいさつ
中学のとき、サッカー部のチームメイトに双子がいた。
ポジションも同じところをやっていたので、最初のころはまったく見分けがつかなかった。
見た目はもちろん、声も動きもボールの扱い方も、本当にそっくりなのだ。
「前半と後半で入れ替わっても、相手は気づかないよな」とか言ってたことを思い出す。
だが、ずっと一緒に練習をしているうちに、どっちがどっちなのか、迷うことはなくなった。
当然である。
双子と言っても、ちゃんと独立した人格の持ち主で、別々の人間なのである。
一緒にサッカーやってるだけでもわかるのに、生活をともにしている人たちが見間違えるわけがない。
要するに、シェイクスピアの原作『間違いの喜劇』のようなことは、現実には起こらないということだ。
しかしこの芝居では、舞台上の全員が間違い続けてくれないと成立しない。
これまでの上演の中には、別人だとわかっていたのに、周囲の人々あえて間違い続けたみたいな解釈もあったらしいが、僕は全員が本当に間違い続けた、というファンタジーとして考えることにした。
そして、それこそが演劇なんじゃないかなあ、とも思う。
だって、そうじゃなかったら、僕が数十年にわたって関わってきた翻訳劇なんて、絶対に成立しない。
シラクサのアンティフォラス?
誰だよ、それ。
ICExの阿久根じゃないか。
演劇はファンタジー!ファンタジーじゃなければ成立しない!
ファンタジーだから、20歳以上年上であっても妹を演じていいのである。
そのために、舞台美術をメタシアター的にして、「これは芝居ですよ」と念を押してみた。
ちなみに舞台中央に立っている柱は、ロンドンのグローブ座の柱のつもりである。
というわけで、観客のみなさんは高みの見物で、答えのわかっているファンタジーを楽しんでいただきたい。
本日はご来場、誠にありがとうございました。
鈴木勝秀(suzukatz.)
24/10-ソーセージ/ lyrics(日本語歌詞だけ)
24/10-ソーセージ/ lyrics
(M1)Don't Give Up!(諦めちゃダメ、ダメ)
諦めちゃダメ〜 ダメダメ〜
てなこと言うけど どんどんどんどん追い詰められる
世の中 そんなには 甘くはないよね〜
諦めが肝心ちゃん
てなこと言われて だんだんだんだんやる気も失せる
だいたい そんなには いいことないよな〜
諦めも必要ちゃん
夢を持てとか
簡単に言うけど
人生勝ったやつらの
ただの戯言(ざれごと)
(でもね!)
諦めちゃダメ〜 ダメダメ〜
諦めちゃダメ〜 ダメダメ〜
諦めちゃダメ〜
(M2)女の子は楽しいことが好き
お買い物 だったらとても好きよ
キラキラに 囲まれたいの
GUCCIのバーゲン 大好き
イタリアン 和食に中華
スイーツは あんこもパフェも
たくさん 食べるの 大好き
でも一番好きなの
あなたといることなの
だから いつでも
わたしといてよね
忘れないでね
女の子はね
楽しいことが
大好き
楽しいことが
Wow Wow
大好き〜
(M3)ほんとは大好き
電話はキライ
連絡はラインだけにして
あんまりお話
得意じゃないのかも
素直になりたいけど、ねぇキース
生まれつき天邪鬼、ねぇジャック
だからイジワル
思わずしちゃうのよ
ほんとは好きよ
だけど隠しちゃうの
嫉妬深いの
だから許してね
素直になりたいけど、ねぇミック
生まれつき天邪鬼、ねぇジョージ
だからイジワル
思わずしちゃうのよ
ほんとは好きよ
だけど隠しちゃうの
嫉妬深いの
だから許してね
(M5)私は罪な女
罪な女ね
また惑わしてる
これで今月
5人目だわ Sacrifice
わたしのどこに
そんな魅力があるのかしら
教えて
あの人たちみんな
すごい美女 だけど
わたし ちがうわ
(でも)
魔性の女だと
だれも かれも いうわ
口説かずにはいられない
ほんと みんな そうよ
私は罪な女
(M7)愛さないで
だから 美魔女なんて
それほど いいことなのかしら
だって 好きでも ないのに
言い寄られたりして 困っちゃうばかりよね
それに 美魔女いったって
なんだか 年増な感じでしょ
わたし まだまだ 若いの
ほんとなの よく見て ほんとよく見てよ
若づくりや
シワ クマ シミのPlastic surgery
してない してないわ
でもお願い
愛さないでほしい
私はひとりがいいの
(M9)女はいくつも顔がある、男もだよ
女が持ってるのは
いくつもの顔さ
オレにだけ 見せてほしい
秘密の顔を
仕事して、遊んで、プライベート
そんで仲間に見せる笑顔
でもオレには 誰にも見せないあの顔見せて
ちょっと 潤んだその瞳
半開きの 赤いくちびる
ちょっと 狂った目の光
まるで 殺し屋の 顔だね
(間奏)
子供みたい 無邪気な バイオレット
そんで怒った顔もいいね
でもオレには 誰にも見せないあの顔見せて
ちょっと 潤んだその瞳
半開きの 赤いくちびる
ちょっと 狂った目の光
オレはもう きみの 虜さ
(M11)神様、お願い
神様っているの? ねえどこなの?
なんにも言わずにさ
なすがままでしょ ねえほんとに
かなり腹が立つの わたしは
(すべてを作ったのは)
すべて 作ったんでしょ?
(神様みんなしあわせにしてよ)
みんな 幸せにしてよ
(みんな あわせたり)
つらい目に あわせたり
それがなぜ 必要なの
神様ってねえ みんなの願い
なんでもすぐ叶えて くれるの?
(世界をつくったのは)
世界は いつまでも
(神様 争いばかりいつまでも)
争いばかりしてる
(悲しむ ためだけに)
悲しむためだけに
生きるのは やめさせてよ
(M12)終わりよければすべて良し
ほら 終わり良ければ
すべてよーしというじゃないの
いま 幸せならば
先のこと(なんて) あとまわしよ
ダメ、ダメ、ダメ
悩んだら
どうせ この世は ままならぬ
ダメ、ダメ、ダメ
怒ったら
どうせ アホなら 踊りましょ
ダメ、ダメ、ダメ
悩んだら
どうせ この世は ままならぬ
ダメ、ダメ、ダメ
怒ったら
どうせ アホなら 踊りましょ
「ルール、それとも自由」ロング・ヴァージョン
「ルール、それとも自由」
ご注意!
このスズカツ・コラムは、開演まであまりお時間がない場合は、観劇後にお読みください。
カントやフリージャズなど、芝居に直接関係ない話も出てきて、混乱してしまうかもしれません。
しかも、かなり分量もあります。
まずは、芝居をご存分にお楽しみください。
発表されたのは1888年です。
もちろん、いつものようにカットアップ、サンプリング、リライトを駆使し、さらに時代設定、年令設定も変更して上演台本を作ったので、これまたいつものようにまったくの別作品になりました。
それでも、やはり原典は『十五少年漂流記』です。
2022年に、ジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』を、リーディングで舞台化しました。
それが思いの外面白かったので──いつか演劇作品で再演したいと思ってます──ヴェルヌのほかの小説も舞台化できないかなと思って、『海底二万里』など数編を拾い読みしました。
そのなかで、舞台化したら面白そうだなと感じたのが、『十五少年漂流記』であったわけです。
『十五少年漂流記』は、小学生の頃初めて読んだジュール・ヴェルヌの小説だったと思います。
完訳本ではなくて、児童向けダイジェスト版の「世界の名作シリーズ」みたいなものでした。
子供にいきなり完訳本を読ませて、難しい!とか思われてそれ以降本を読まなくなったりしないように、やさしい言葉遣いで、物語の概要がするすると頭に入ってくるようなアレです。
小学校の図書館にはそういうのがたくさんあって、今ほどマンガもアニメもゲームもありませんから、手当たり次第にそういうのを読んだわけです。
だからといって、何か役に立ったのかと言われると、あのころ読んだマンガのほうが圧倒的に記憶に残ってるし、影響も受けているような気がします。
それでも、『十五少年漂流記』の血湧き肉躍る少年たちの冒険譚に、大変興奮した覚えがあります。
というわけで、少年たちの冒険物語として立ち上げるべく再読しようと思い、『十五少年漂流記』の完訳本を読み始めました。
読み始めると、子供の頃に読んだダイジェスト版の印象とだいぶ違ったんですね。
登場人物は少年たちですが、まさに人間社会の縮図が描かれています。
無人島で生き抜くために、居住地を定め、ルールを制定し、選挙でリーダーを選び、無人島を擬似植民地化していく。
しかし、というか、思った通り共同体内で意見の相違から対立が起こり、分断が発生する。
少年たちが知恵を絞ってサバイバルする成長物語ではあるものの、その少年たちの中にある、人種差別、選民思想、権力志向、独善的な人間の醜さが露わにされます。
さらにその分断の構図には、フランス人対イギリス人、という国家の対立まで入ってくるのです。
人間の愚かな面、醜い面が、思った以上に描写されているのです。
こんな少年たちの、こんな小さな共同体でも、覇権を争うのか──と暗澹たる気分になりました。
そこに、外敵(悪党のウォルストン一味)が現れます。
外敵が現れると少年たちは再び団結し、ついには戦争状態に入り、その外敵を殲滅してしまいます。
殲滅という言葉を使いましたが、少年たちは相手がいくら悪党とはいえ、ウォルストン一味を殺してしまうのです。
正当防衛!悪党は殺してもいい!という価値観を強く感じました。
それはヴェルヌの属する、当時の西欧人の自己正当化であって、児童文学、少年娯楽小説とはとても思えませんでした。
爽快感などまるで感じません。
それでも僕は、これは舞台化する価値がある、と思ったのです。
昨年、芥川龍之介の『桃太郎』をもとに、『ピーチ』を作ったのと同じ思いでした。
どんなに文明が進んでも、人間は成熟しないよなあ、という思いです。
『ピーチ』では成熟しない人間の「正義」について考えましたが、今回は、タイトルにもした「ルール」についていろいろ考えてみました。
人間は、まれに一人で何年も生きることを強いられる場合がありますが、基本的に社会を作らないと生きていかれませんよね。
そして、社会にはルールが必須です。
なぜなら、他の動物と違って、人間はもともと悪い生き物なので、ルールが無ければ、それこそ無法地帯となり、それぞれが本能の赴くまま、全速力で悪へと向かって突っ走るからです!
だからルールを作って、みんなが幸せに暮らせる、平和で安全な社会を維持しなければならないのです!
とか言われてきたような気がするのですが、本当にそうなのでしょうか?
ルールがないと、人間はそんなにも好き放題、無秩序になるものなんでしょうか?
僕は、学生の頃、フリージャズを好んで聞いていました。
レコードで聴くだけではなく、足繁くライブハウスにも通いました。
大学の演劇研究会には所属していましたが、芝居よりライブハウスに行くことのほうが多かったかもしれません。
フリージャズに、いわゆる音楽的ルールはありません。
それぞれが自由に、好きなように音を出せばいいのです。
ジャズ・ピアニストの山下洋輔さんは「たとえシロウトでも、もっと言えばネコでもフリージャズはできる。だが、シロウトやネコはいい演奏ができても、それは一回限り。プロはそれを毎晩できる──」とエッセイに書いておられます。
で、そのプロの演奏は、各自が自由に、好き勝手にやっているにも関わらず、協調性があり、秩序が生まれ、強烈にグルーブする素晴らしいものだったわけです。
そのような演奏が成立するには、各プレーヤーが、そこで鳴っているおたがいの音をきちんと聴くことができ、それにきちんと反応できる演奏技術を持ち、今起きていること(音)を自分で考える力を有することが必要です。
ここで一番重要なのは、「自分で考える力を有する」という点です。
自分で考え、判断できなければ、どれだけいい耳を持ち、高い演奏技術があっても、ルールに頼らないと自由に演奏することはできないのです。
自由になるためには、自分で考え、判断する能力こそが必要なのですね。
当時の僕は、フリージャズにアナーキズムの理想型を感じていたのだと思います。
各自が自由なのに、エゴイズムに陥らず調和があり、共通の目的に向かって進むといったイメージです。
それは、ルールを制定して共同体運営を図ろうとした少年たちとは、正反対の姿です。
少年たちは、ルールを決めなければ──各自が自由に行動したら──極限状態を生き抜くことはできない、と思ったのでしょう。
しかしルールには、本当に強制力なんかあるのでしょうか?
古今東西、人間はルールや法を制定しますが、それを必ず破るか、もしくは自分の都合のいいように解釈するようになりますよね。
中には、「ルールなんて破るためにあるんだ!」とか豪語する強者も出てくるわけです。
ロシアのウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ攻撃も、我が国の裏金問題も、みんなルール違反ですよね。
サッカーの試合を観ていても、いかにルールを悪用するかばかり考えているようにすら感じることがあります。
PK狙いのダイブとか、マラドーナの「神の手」とかね。
具体的には言いませんが、僕だってルール違反なんかいくらでもします。
ルールが何かの抑止力になっているのは確かでしょうが、ルールによって罰せられることなんか気にするもんか!と自暴自棄になっちゃった人には、なんの意味もありません。
レッドカード覚悟でハンドはするし、詐欺は働くし、泥棒はするし、脱税はするし、殴るし蹴るし、銃撃するし、核ミサイルのボタンも押す、かも。
結局ルールは、守るやつは守るが、守らないやつは守らないのです。
つまりルールは、あってもなくても同じことなんじゃないかなあ、なんて思ったりする短絡的な人も出てくるわけです。
僕も、もしかしたらそうなのかもなあ、でも、そうなったら悪いやつら狡いやつらだけが得するわけで、それはそれでイヤだなあ、とか、なんだか考えが定まらないことになってしまいます。
やっぱり最低限のルールは必要なんでしょうか?
ところがここに、カントが登場します。
18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントです。
と言って、芝居の中にカントが登場するわけではありません。
僕のような、定まらない人間を導いてくれる先達として登場するのです。
僕は長らくニーチェのニヒリズムに傾倒してきたのですが、ここ数年、どうもやっぱりカントだ、とか思うようになってきました。
もちろん僕は、ニーチェ哲学もカント哲学も、正確にはまったくわかってないシロウトです。
大学で哲学の授業にすら出たことはありませんし、偉い先生について学んだこともありません。
ですがシロウトなりに、やっぱりカントだよなあ、とか思いながら日々を送っています。
で、カントは次のように言うわけです。
「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
これはカントの定言命法といわれる、カントの考えを簡潔にまとめたものです。
定言命法とは、「無条件に従うべき命令、義務」という意味です。
この定言命法はあくまで個人の行為に関するものであり、ルールの決め方そのものを問題にはしてません。
「格率」という言葉に馴染みがないと思いますが、これはカントの用語で「自分の行為を決める規則」、つまり自分のルールのことです。
ですから、間違いを恐れず思いっきりわかりやすくすると、次のようになります。
「自分自身でよーくよーく考えて、いつでもどこでも誰もが正しいと思う行動をしなさい」
ここで重要なのは、正しいかどうかの判断を自分自身で考えて下すものである、というところです。
判断の基準は、外部にあるのではなくではなく、自分自身の理性的な思考によって得られる。
つまり、誰かに教えられたり、強制されたり、さらに言えば、一神教の世界では絶対的なはずの、神の教えにさえ盲目的に従うのではなく、自分でよく考えて判断せよ、ということなんだと僕は理解しています。
しかし、自分の下した判断が、いつも正しいという保証はありませんよね。
いつでも自分が正しいと思っているとしたら、それはただ独善的だということに過ぎませんから。
当然、結果的に間違った判断をすることもあるわけです。
ですが、あらゆる問題に正解があるわけではないのですから、結果を恐れて自分で判断しないのは、カント的にはよろしくありません。
誰かに判断を任せる──カントはそれを未成年の状態と呼び、『啓蒙とは何か』の冒頭で以下のようなことを書いてます。
『啓蒙とは何か』が発表されたのは1784年ですから、いかに人間が成熟しないのかがよくわかります。
「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。」
僕たちの周りは、暗黙的なものも含め、既に出来上がったルールで満ち溢れています。
そして共同体(コミュニティ/カンパニー)は、そのルールをどういうわけか押し付けてくる。
そのため誰かが何かをしようとすれば、そうしたルールに従うべきなのかどうかを問われる場面が多くなるでしょう。
そして、それは精神的にとても負担になる。
たとえば、演出をする際、戯曲がルールブックになった場合など、とても不自由で、僕はとても息苦しくなってしまいます。
日常的に、そのようなことは頻発してますよね。
でも、その共同体の一員でいるためには、ルールは守らないといけないんじゃなかろうか、とか思ってルール違反をする人をおたがいに監視するようになるのです。
ルールに守られているんだか、脅かされているんだか、わからなくなります。
でも、カントはこうも言ってます。
「他の誰からの命令を受けたわけでもなく、また見返りを求めることでもなく、ただそうあるべきだと自ら行うことこそが道徳的であり、人としてあるべき姿だ」
自由です。
カントは自由の人です。
僕は、カントの哲学の根幹は自由だ、と勝手に解釈してます。
カントにとって自由とは、好き勝手にやりたいようにやることではなく、自分のルールを作り、そのルールに従って行動するという、意志の自律そのものなのです。
意志の自律。
自分のことは自分で決める──僕はそれこそが自由だと思います。
さて、芝居からだいぶ離れてしまいました。
僕がヴェルヌの『十五少年漂流記』で一番興味深かったのは、流れ着いた島がどこにあったかではなく、少年たちのサバイバルでもなく、ウォルストン一味との戦いでもありませんでした。
彼らが、自分が元いた世界を真似て、コミュニティを作っていく過程でした。
結局、誰もが自分のことを自分で決めきれないので、誰かを頼り、自分の外側にルールを求め、一方でリーダーになって、その共同体に責任を取ろうとする。
なんと怠慢で臆病で傲慢なことだなあ、と感じましたが、これって今も少しも変わりませんよね。
一人で生きて行くのはしんどい、でも、誰かと生きていくこともまたしんどいのです。
ですが、すべては一人で生きることからスタートしているのは確かだと思うのです。
自分以外の誰かもしくは何かを信じることをやめて、まずは一人で生きてみてはどうでしょう。
そのうち仲間ができるかもしれない、できないかもしれない。
それじゃダメなのかなあ。
本日はご来場、誠にありがとうございました。
鈴木勝秀(suzukatz.)
「ルール、それとも自由」/『ルール』2024年5月
「ルール、それとも自由」
『十五少年漂流記』は、小学生の頃、初めて読んだジュール・ヴェルヌの小説だったと思います。
完訳本ではなくて、児童向けダイジェスト版の「世界の名作シリーズ」みたいなものでした。
子供にいきなり完訳本を読ませて、難しい!とか思われてそれ以降本を読まなくなったりしないように、やさしい言葉遣いで、物語の概要がするすると頭に入ってくるようなアレです。
小学校の図書館にはそういうのがたくさんあって、今ほどマンガもアニメもゲームもありませんから、手当たり次第にそういうのを読んだわけです。
だからといって、何か役に立ったのかと言われると、あのころ読んだマンガのほうが圧倒的に記憶に残ってるし、影響も受けているような気がします。
それでも『十五少年漂流記』の血湧き肉躍る少年たちの冒険譚に、大変興奮した覚えがあります。
というわけで、少年たちの冒険物語として舞台化するべく、『十五少年漂流記』の完訳本を読み始めました。
読み始めると、子供の頃に読んだダイジェスト版の印象とだいぶ違ったんですね。
登場人物は少年たちですが、まさに人間社会の縮図が描かれています。
無人島で生き抜くために、居住地を定め、ルールを制定し、選挙でリーダーを選び、無人島を擬似植民地化していく。
しかし、というか、思った通り共同体の中で意見の相違から対立が起こり、分断が発生する。
少年たちが知恵を絞ってサバイバルする成長物語ではあるものの、その少年たちの中にある、人種差別、選民思想、権力志向、独善的な人間の醜さが露わにされます。
さらにその分断の構図には、フランス人対イギリス人、という国家の対立まで入ってくるのです。
人間の愚かな面、醜い面が、思った以上に描写されているのです。
こんな少年たちの、こんな小さな共同体でも、覇権を争うのか──と暗澹たる気分になりました。
そこに、外敵(悪党のウォルストン一味)が現れます。
外敵が現れると少年たちは再び団結し、ついには戦争状態に入り、その外敵を殲滅してしまいます。
殲滅という言葉を使いましたが、少年たちは、相手がいくら悪党とはいえ、ウォルストン一味を殺してしまうのです。
正当防衛!悪党は殺してもいい!という価値観を強く感じました。
それはヴェルヌの属する、当時の西欧人の自己正当化であって、児童文学、少年娯楽小説とはとても思えませんでした。
爽快感などまるで感じません。
それでも僕は、これは舞台化する価値がある、と思いました。
昨年、芥川龍之介の『桃太郎』をもとに、『ピーチ』を作ったのと同じ思いでした。
どんなに文明が進んでも、人間は成熟しないよなあ、という思いです。
『ピーチ』では成熟しない人間の「正義」について考えましたが、今回は、タイトルにもした「ルール」についていろいろ考えました。
古今東西、人間はルールや法を制定しますが、それを必ず破るか、もしくは自分の都合のいいように解釈するようになりますよね。
中には、「ルールなんて破るためにあるんだ!」とか豪語する強者も出てくるわけです。
ルールが何かの抑止力になっているのは確かでしょうが、ルールによって罰せられることなんか気にするもんか!と自暴自棄になっちゃった人には、なんの意味もありません。
結局ルールは、守るやつは守るけど、守らないやつは守らないのです。
僕が『十五少年漂流記』で一番興味深かったのは、少年たちが、自分が元いた世界を真似て、コミュニティを作っていく過程でした。
結局、誰もが自分のことを自分で決めきれないので、誰かを頼り、自分の外側にルールを求め、一方でリーダーになって、その共同体に責任を取ろうとする。
なんと怠慢で臆病で傲慢なことだなあ、と感じましたが、これって今も少しも変わりませんよね。
一人で生きて行くのはしんどい、でも、誰かと生きていくこともまたしんどいのです。
でも、僕はなるべく自由でいたいです。
本日はご来場、誠にありがとうございました。
鈴木勝秀(suzukatz.)
「想像力駆使型芝居」/『レインマン』(2006/2007年)
「想像力駆使型芝居」
『レインマン』は、ロードムービーである。
作品内で経過する時間は、大河ドラマと違ってさほど長くはないが、とにかくシーンがあちこちと移動する。
そのたびに、衣裳は変わる、セットは変わる、主役のチャーリーとレイモンドに絡む登場人物も次々と現れる。
それを、劇場という、時間も空間も限定された中に移築するのは、並大抵のことではない。
難しい。
しかも、二人芝居にできませんか、とプロデューサーはのたまう。
さらに難しくなる。
そのうえで、世界初の舞台化ですから、と煽るのだ。
「〜初」とか、「あまり手を出す人はいない」とか、「難しいでしょうね」という言葉に、僕は滅法弱い。
どうしても手を出したくなる。
引き受けましたとも、もちろん。
そして僕は、上演へ向けて、二つの決断をした。
一つは、映画のエピソードにはこだわらず、底辺に流れているもっとも力強いテーマだけを浮かび上がらせること。
そして、もう一つは、観客の想像力を信頼し、できる限りシンプルな空間を作り上げること。
交渉の末、登場人物は四人にさせていただけ、なんとか書き上げた上演台本は、幸いなことにMGMにも認可され、こうして公演に漕ぎ着けることができた。
想像力に限界はありません。
みなさんの想像力を、目一杯駆使してお楽しみ下さい。
鈴木勝秀(suzukatz.)
『レインマン』再演にあたって(2007年)
演劇とは一回性がすべてと言ってもいいジャンルである。
文字の発明とともに戯曲は残せたが、俳優、演出、劇場が変わることによって、作品はまったく違ったものに生まれ変わる。
最近では、ビデオ、DVDなどで作品記録は残せるようになったが、劇場という場で目撃されたものとはどうしても違うことは、演劇ファンなら周知の事実だ。
ゆえに名作と呼ばれる戯曲は何度でも上演・再演され続け、そのたびに新たな感動を生むのである。
では、名作とは何か?
僕はそれを"作品が内包する可能性"だと考える。
可能性があればあるほどいい。
演劇に"完成"はないのである。
僕は、昨年の『レインマン』初演を毎日見た。
あれほど上演台本作りで考え、稽古でいろいろ試したのに、それでも『レインマン』はまだまだ可能性を感じさせてくれた。
そしてそれは、主演のお二人も同じように感じてくださったようだった。
だったらやるしかないでしょう。やらせてください!というわけで、こんなにも早く再演に漕ぎつけることができたのである。
鈴木勝秀(suzukatz.)
「胎内=再生の場」(2005年)
「胎内=再生の場」
なぜこの戯曲は、『防空壕』というタイトルではなく、『胎内』と名付けられたのだろう。
もちろん、『防空壕』より『胎内』の方が、芸術的にもアピール度においても、はるかにインパクトがあるのは間違いない。イメージも広がるし、単に太平洋戦争後の日本の一瞬を捉えた作品から、普遍的なテーマに繋がりもする。そして、何よりピンとくる。フィットしている。
でも、なぜ『胎内』なんだ?
母の話など、はっきり言ってほとんどない。大自然(マザー・ネイチャー)の話でもない。まったくの偶然に"防空壕"に閉じこめられた男女三人の、衰弱していく様子を描くことに撤しているだけだ。
なぜ『胎内』?
戯曲を読み返しながら、演出を考えると同時に、僕はずっとそのことにとらわれていた。
舞台美術や衣裳のプランが固まり、照明のイメージ、音響のイメージが定まって、いつものように上演台本の作成に入った。
僕は、常に既製作品の上演にあたって、上演用のト書きに書き直した台本を作る。その際、台詞もすべてコンピュータに打ちこむことにしている。
俳優が台詞を覚えることに比べれば大した作業ではないが、それでも"読む"という行為だけではなく、"書き写す"という行為を行うことによって、少しでも台詞を肉体化することができるのではないかと思っているからである。
なんでここをカタカナにしたんだろう?なんで前に出て来た時は漢字だったのに、今度は平仮名なんだろう?呼び名の変化、言葉づかいの変化、「……」と「──」の使い分け、様々なところにヒントがある。
"写経"の気分でもあり、これを通過すると、ずいぶんと作家が近づいてきたような感じがするのだ。
すると、あることに気がついた。
この『胎内』の台詞は、巧妙に会話形式にはなっているが、なんだか独り言=自問自答のようなのだ。
突然、自分のことに思い当たった。何かが"わかる"というのは、自分のことに思い当たることだったりするものだ。
以前、僕は芝居作りに行き詰まり(閉塞感)を感じていたとき、マサル(勝)とスグル(秀)という二人しか登場しない芝居を書いた。どこだかわからない部屋の中に二人はいる。出入り口はあるのだが、見えない壁があるらしく、何度も出ようとするがそれに跳ね返される。
その部屋の中で、二人はいつまでもいつまでも喋り続ける。それは会話のようではあるが独り言だ。僕自身の独り言=自問自答なのだ。
それを書くことによって、僕は過去を思い返しながら、未来を模索していた。再生を考えていた。
そして、その芝居のタイトルを、僕は『NAKED』と名付けた。『NAKED』=『裸』だ。
なんか似てる──僕はおこがましくもそう思った。
三好十郎は、この『胎内』を書くことによって、ある種の"再生"を果たそうとしたのではないか。
胎内とは再生の場だ、そう考えると、いろいろなことが腑に落ちた。
とても日本的な、それでいて普遍的な世界観。
そして、激しく"生"を求める強いエネルギー。
だからこそ、この戯曲には希望があると僕は感じるのだ。
21世紀を迎えて5年、今こそ日本にも世界にも、真の再生が必要な気がする。
鈴木勝秀(suzukatz.)
『ドレッサー』(2005年) 「Nowhere Man」 〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜
『ドレッサー』(2005年)
「Nowhere Man」
〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜
"ドレッサー(dresser)"という仕事は、日本語に直すと"衣裳方"ということになるのだろう。だが、このロナウド・ハーウッドの戯曲の中に描かれているドレッサーは、どうも"付き人"というニュアンスの方が強いようだ。
実際、ドレッサー=ノーマンは、座長以外の衣裳に関して何も仕事をしていない。しかし、座長に関しては、衣裳、ヘア・メイクだけではなく、身の回りの世話すべてをしている。影のように座長に寄り添い(ときには、実際に黒子としてプロンプもこなす)、スケジュールをすべて把握し、あらゆることを気遣い、道化のように笑わせ、励まし、座長の成功こそを自分の生き甲斐としている。夫人よりもはるかに献身的である。
まさに、座長という存在があって、はじめてドレッサー=ノーマンは実在できるかのようだ。裏返せば、座長の存在が消えたとき、それはドレッサー=ノーマンの存在も同時に消えることになる。
ノーマンの行動を支えているのは"貢献欲"だ。
人間にはいくつもの欲望があるが、中でも"貢献欲"は、それが満たされると最も快感を得られる欲望だと言われる。
愛する人のために、子供のために、親のために、尊敬する上司のために、会社のために、国のために、地球のために、正義のために、神のために……
そして、自分以外の何かの"ため"の行動は、どんなことでも正当化され、エスカレートする。実体のない自分をどんどん拡大していくことによって、さらに快感を得ようとする。
劇中、ノーマンは何度も"友だち"の話として、自分の過去を語る。
そこでイメージされるノーマンは、ジョン・レノンが「Nowhere Man」で描き出した空虚な人物像そのものである。座長に仕え、舞台裏を支えようと熱心に動き回るノーマンとはまったくの別人。"貢献"すべき何かがないと、こうも生命力を失うものなのだ。何か(誰か)に支配されることが、彼の生きるエネルギーになっている。
では、そのノーマンの貢献の対象となる座長はどうだろう?
ノーマンにとっては、"絶対"であり、唯一無比の存在だが、座長は座長で、何かに支配されているという感覚を拭い去れない。その何かとは、シェイクスピアであり、ナチスであり、観客であり、時代であり、彼を取り巻くすべてのようである。ノーマンを支配し、劇団を支配し、ある意味観客をも支配しながら、座長は自分自身こそが支配されているように感じている。
彼もまた「Nowhere Man」の一人なのである。
そしてそれは、座長夫人にもマッジにもアイリーンにもあてはまる。
われわれ人間は、社会の中でしか生きられない。個人は相対的にしか存在できない。そして、そこには必ず、支配=被支配の関係が生まれる。だが、それは簡単に逆転してしまう脆いものなのだ。
だからこそ、その関係を守ろうと必死になる。自己を維持できなくなるのが恐いからだ。そして貢献欲によって補強された支配=被支配の関係は、さらに強度を増し、硬直化し、ただひたすらどちらかが倒れる日を待つことになる。
だが、たとえどちらかが倒れても、残された者に解放感はない。あるのは、無力感、虚脱感だけである。
そして残された者は、再び「Nowhere Man」へと逆戻りする。
人は何か(誰か)から必要とされていたいのだ。
それはとても滑稽であり、とてつもなく切ない。
この『ドレッサー』が単なるバックステージ物の喜劇としてではなく、普遍的な輝きを放ち続けるのは、まさにその切なさが描かれているからだと感じている。
ノーマンはあなたであり僕でもあるのだ。
鈴木勝秀(suzukatz.)