「胎内=再生の場」
なぜこの戯曲は、『防空壕』というタイトルではなく、『胎内』と名付けられたのだろう。
もちろん、『防空壕』より『胎内』の方が、芸術的にもアピール度においても、はるかにインパクトがあるのは間違いない。イメージも広がるし、単に太平洋戦争後の日本の一瞬を捉えた作品から、普遍的なテーマに繋がりもする。そして、何よりピンとくる。フィットしている。
でも、なぜ『胎内』なんだ?
母の話など、はっきり言ってほとんどない。大自然(マザー・ネイチャー)の話でもない。まったくの偶然に"防空壕"に閉じこめられた男女三人の、衰弱していく様子を描くことに撤しているだけだ。
なぜ『胎内』?
戯曲を読み返しながら、演出を考えると同時に、僕はずっとそのことにとらわれていた。
舞台美術や衣裳のプランが固まり、照明のイメージ、音響のイメージが定まって、いつものように上演台本の作成に入った。
僕は、常に既製作品の上演にあたって、上演用のト書きに書き直した台本を作る。その際、台詞もすべてコンピュータに打ちこむことにしている。
俳優が台詞を覚えることに比べれば大した作業ではないが、それでも"読む"という行為だけではなく、"書き写す"という行為を行うことによって、少しでも台詞を肉体化することができるのではないかと思っているからである。
なんでここをカタカナにしたんだろう?なんで前に出て来た時は漢字だったのに、今度は平仮名なんだろう?呼び名の変化、言葉づかいの変化、「……」と「──」の使い分け、様々なところにヒントがある。
"写経"の気分でもあり、これを通過すると、ずいぶんと作家が近づいてきたような感じがするのだ。
すると、あることに気がついた。
この『胎内』の台詞は、巧妙に会話形式にはなっているが、なんだか独り言=自問自答のようなのだ。
突然、自分のことに思い当たった。何かが"わかる"というのは、自分のことに思い当たることだったりするものだ。
以前、僕は芝居作りに行き詰まり(閉塞感)を感じていたとき、マサル(勝)とスグル(秀)という二人しか登場しない芝居を書いた。どこだかわからない部屋の中に二人はいる。出入り口はあるのだが、見えない壁があるらしく、何度も出ようとするがそれに跳ね返される。
その部屋の中で、二人はいつまでもいつまでも喋り続ける。それは会話のようではあるが独り言だ。僕自身の独り言=自問自答なのだ。
それを書くことによって、僕は過去を思い返しながら、未来を模索していた。再生を考えていた。
そして、その芝居のタイトルを、僕は『NAKED』と名付けた。『NAKED』=『裸』だ。
なんか似てる──僕はおこがましくもそう思った。
三好十郎は、この『胎内』を書くことによって、ある種の"再生"を果たそうとしたのではないか。
胎内とは再生の場だ、そう考えると、いろいろなことが腑に落ちた。
とても日本的な、それでいて普遍的な世界観。
そして、激しく"生"を求める強いエネルギー。
だからこそ、この戯曲には希望があると僕は感じるのだ。
21世紀を迎えて5年、今こそ日本にも世界にも、真の再生が必要な気がする。
鈴木勝秀(suzukatz.)