『ドレッサー』(2005年) 「Nowhere Man」 〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜

『ドレッサー』(2005年)
「Nowhere Man」
〜Isn't he a bit like you and me ? ヤツはちょっとあなたやぼくに似てないか?〜

"ドレッサー(dresser)"という仕事は、日本語に直すと"衣裳方"ということになるのだろう。だが、このロナウド・ハーウッドの戯曲の中に描かれているドレッサーは、どうも"付き人"というニュアンスの方が強いようだ。
実際、ドレッサー=ノーマンは、座長以外の衣裳に関して何も仕事をしていない。しかし、座長に関しては、衣裳、ヘア・メイクだけではなく、身の回りの世話すべてをしている。影のように座長に寄り添い(ときには、実際に黒子としてプロンプもこなす)、スケジュールをすべて把握し、あらゆることを気遣い、道化のように笑わせ、励まし、座長の成功こそを自分の生き甲斐としている。夫人よりもはるかに献身的である。
まさに、座長という存在があって、はじめてドレッサー=ノーマンは実在できるかのようだ。裏返せば、座長の存在が消えたとき、それはドレッサー=ノーマンの存在も同時に消えることになる。

ノーマンの行動を支えているのは"貢献欲"だ。
人間にはいくつもの欲望があるが、中でも"貢献欲"は、それが満たされると最も快感を得られる欲望だと言われる。
愛する人のために、子供のために、親のために、尊敬する上司のために、会社のために、国のために、地球のために、正義のために、神のために……
そして、自分以外の何かの"ため"の行動は、どんなことでも正当化され、エスカレートする。実体のない自分をどんどん拡大していくことによって、さらに快感を得ようとする。

劇中、ノーマンは何度も"友だち"の話として、自分の過去を語る。
そこでイメージされるノーマンは、ジョン・レノンが「Nowhere Man」で描き出した空虚な人物像そのものである。座長に仕え、舞台裏を支えようと熱心に動き回るノーマンとはまったくの別人。"貢献"すべき何かがないと、こうも生命力を失うものなのだ。何か(誰か)に支配されることが、彼の生きるエネルギーになっている。

では、そのノーマンの貢献の対象となる座長はどうだろう?
ノーマンにとっては、"絶対"であり、唯一無比の存在だが、座長は座長で、何かに支配されているという感覚を拭い去れない。その何かとは、シェイクスピアであり、ナチスであり、観客であり、時代であり、彼を取り巻くすべてのようである。ノーマンを支配し、劇団を支配し、ある意味観客をも支配しながら、座長は自分自身こそが支配されているように感じている。
彼もまた「Nowhere Man」の一人なのである。
そしてそれは、座長夫人にもマッジにもアイリーンにもあてはまる。

われわれ人間は、社会の中でしか生きられない。個人は相対的にしか存在できない。そして、そこには必ず、支配=被支配の関係が生まれる。だが、それは簡単に逆転してしまう脆いものなのだ。
だからこそ、その関係を守ろうと必死になる。自己を維持できなくなるのが恐いからだ。そして貢献欲によって補強された支配=被支配の関係は、さらに強度を増し、硬直化し、ただひたすらどちらかが倒れる日を待つことになる。
だが、たとえどちらかが倒れても、残された者に解放感はない。あるのは、無力感、虚脱感だけである。
そして残された者は、再び「Nowhere Man」へと逆戻りする。

人は何か(誰か)から必要とされていたいのだ。
それはとても滑稽であり、とてつもなく切ない。
この『ドレッサー』が単なるバックステージ物の喜劇としてではなく、普遍的な輝きを放ち続けるのは、まさにその切なさが描かれているからだと感じている。

ノーマンはあなたであり僕でもあるのだ。

鈴木勝秀(suzukatz.)