『Kappa』演出/鈴木勝秀(suzukatz.)
3月の初旬、『Kappa』のヴィジュアル撮影があったので、都内某所のスタジオへ見に行った。
ヴィジュアル撮影は、基本的に遠巻きに見ているだけなので、僕が演出家であることに気づかない関係者もいたりする。
今回もそんな感じで眺めていたのだが、かなり収穫があった。
コロナ禍でもあるので、集合写真はNGで全員ソロでの撮影であるから、ひとりひとりをかなり観察できた。
一番の収穫は、特殊メイクもしていないのに、僕にはみんなが河童に見えたことだ。
これは重要なことである。
「河童は人間のメタファーだ」ということを、くどくどと説明しなくても済むからだ。
河童というと、体は緑色で、頭に皿があって、甲羅を背負っていて、水かきがあって、口はアヒルのような黄色い嘴(くちばし)、というのが定番イメージであろう。
でも、それをリアルに再現しようとしたり、アーティスティックに構築しようととしたら、とても予算が足りない。
かといって低予算でやったら、ダメなコントになってしまう。
だから、『BOSS CAT』のネコ同様、当初から河童のメイク、扮装はしない、という方向で考えていた。
だが、今回のキャストを集めてみたら、みんな河童っぽいのだ。
芝居では、「言った者勝ち」のところがあるので、河童役が「オレは河童だ!」と言い倒せば、それでOKではあるのだが、全員、河童っぽく見えたのは何よりであった。
なかでも織山は、とても河童っぽかった。
第23号は河童ではなく人間の役なのだが、織山の態度や話し方には、芥川の原作に出てくる河童っぽいところがある。
特に目付きは、ちょっとぞっとするムードがある。
チラシの写真を見ていただきたい。
人間じゃないかも──そう感じるかたも、多数いらっしゃるのではないだろうか。
そして僕は、「あ、こいつは第23号だ」とピンときた。
第23号は、人間でありながら、人間社会と相容れないマイノリティの代表者なのだ。
社会に適合している一般的な人間から見ると、異人種であり、河童なのである。
だから、織山に「人間じゃないかも」と思えるムードがあることは、作品的にとてもよかった。
織山なら、「僕はまた河童の国へ帰りたいと思いました。行きたい、のではありません。帰りたい、と思ったのです。」と違和感なく言える──そう思った。
僕は演出するにあたって、ピンとくる=直感を重要視している。
稽古場では、「準備が大切!」と常に言い続けているのだが、準備してきたものに捉われずに、直感や無意識を働かせることこそが創造的であり得る。
そこには「どうして?」に対する明確な解答がなくてもいい。
「ピンときたから」でいいのである。
だから、稽古の2ヶ月も前のヴィジュアル撮影の段階で、僕はもうこの芝居は面白くなる、と確信していたのである。
その後、舞台美術、衣裳、ヘアメイク、照明、音響などのミーティング(すべてリモート)を重ねるごとに、その確信はさらに強まった。
さらに、大嶋吾郎くんから、音楽デモがいつものように次々と送られてくるころには、まだまだ稽古前にもかかわらず、僕の頭の中で、『Kappa』はほぼほぼ完成してしまった。
だが、それはあまりよくないことなのである。
演出家の頭の中にあるイメージに、演技やスタッフワークを近づけていこうとするのは、一番つまらない稽古のやりかたである。
自分のイメージに合わないものには、「ダメ出し」をしてしまう。
そして、役者にもスタッフにもプレッシャーを与え続け、自由な発想を奪ってしまう。
そうなると稽古場から、「ピンときたから」がどんどん消え失せていく。
僕が演劇を面白いと思うのは、他者との共同作業だからだ。
稽古開始当初、稽古場は他者と他者が入り乱れ、カオス的状況である。
それが稽古が進むにつれて方向性が定まり、安定した芳醇な時間を生み出していく。
それこそが、演劇の醍醐味なのである。
そのために、稽古場は「自由」でなければならない。
誰かのイメージやヴィジョンを実現させるためにあってはいけない。
で、今回の稽古場はと言うと──僕の頭の中で、ほぼほぼ完成していたと思われた『Kappa』は、取るに足らないものであったことを見せつけてくれたのだった。
ウイズ・コロナになって一年。
芝居を作りたいというキャストもスタッフも、そして、こうしてお集まりいただいた観客のみなさんもいる。
「作りたい人」と「見たい人」がいる限り、演劇の灯は消えたりしない。
演劇を存在させるのは、個人個人の意志の問題なのである。
本日はご来場、誠に誠に誠に、ありがとうございます。
心より感謝致しております。
鈴木勝秀(suzukatz.)