2013年7月28日の質問: *Suzukatz.作品を創るときに「不可欠なもの」といえばなんでしょうか。

<2013年7月28日の質問>
*Suzukatz.作品を創るときに「不可欠なもの」といえばなんでしょうか。

<返事>
この質問への答えは簡単です。
僕以外のキャストとスタッフです。
僕は自分ではほとんど何もできませんから。

まずはキャスト。
はっきり言って、僕は演出家としての僕を満足させることができる役者ではないのです。(ちなみに、お声をかけていただければ、今でも出演する気持ちは十分にありますし、全力で演じる所存です)
僕が二十五年くらい前に、『欲望という名の電車』(池田成志演出)でブランチを演じたことがあるのをご存知のかたもおられるでしょう。
ですが、篠井英介さんにやっていただいた方が、よっぽどスズカツ作品になるのは、どなたでもご理解できることだと思います。
LYNX』〜『CLOUD』のオガワシリーズに登場する「アマリさん」というキャラクターも、初演の『LYNX』では僕が演じていました。
しかし今やアマリさんは、伊藤ヨタロウ氏以外にイメージできなくなってしまいました。
僕のオリジナル作品に主演してくれた俳優を思い起こしても、吉田紀之(ヨシダ朝)、池田成志勝村政信松重豊、大石継太、古田新太田中哲司佐藤アツヒロ田口トモロヲ橋爪功椎名桔平(敬称略)......と誰をとっても他に替えがきかない、唯一絶対、不可欠な存在であることは明白でしょう。
僕のイメージを形にしてくれる俳優は、まず何を置いても絶対に不可欠です。

次に、スタッフ。
例えば、照明の倉本泰史氏は、もう三十年近く僕の芝居の照明をやってくれてますが、倉本抜きのスズカツ作品はあり得ません。多くの方が、スズカツ作品と思っているヴィジュアルのかなりの部分を倉本が作ってきたのです。
同じように、音響の井上正弘氏も不可欠です。
基本的に、僕は前回お答えしたように、自分の芝居の音のイメージは最初から持っています。
選曲もほとんど僕が一人でします。
ですから、サラヴァ東京でやっているように、僕が音響ブースに入って音出しをしていても、いつもとそれほど違ってはいないように感じるかたも多いかもしれません。
しかし、たとえ同じ音源を同じ機材で出しても、僕がやるのと、井上さんがプラン、調整して出されるものは、音のクオリティが全然違うのです。
舞台美術の二村周作氏は、上演テキストの第一稿を読んで絵を描くのですが、それによって、僕の演出プランを変えてしまうことすらあります。
宣伝美術として関わってくれている永瀬祐一氏も外せません。
永瀬さんは、サラヴァ東京シリーズのポストカード(会場で無料配布しております)を、ボランティアで作成してくれてもいるのですが、僕が芝居を作るとき、一番最初に打ち合わせをして、内容に関して話す相手はだいたい彼です。
チラシ・ポスターのヴィジュアルに対して、僕はいつもすごく簡単なことしか伝えてません。
例えば『VOICE』に関しては、「文字だけ」と伝えただけです。
とにかくすべてのスタッフが、驚くほどの理解力と技術で、僕の作品のクオリティを支えてくれているのです。

つまり、ある作品のために集まってくれたカンパニーこそ「不可欠なもの」と言えるでしょう。
でも、これではあまりにもあまりな答えなので、もう少し考えてみることにします。

僕が作品の中で、自分一人でやっていることがあるとすれば、それは上演台本を書くことです。
なので、そこにはスズカツっぽさ、スズカツ作品に「不可欠なもの」があるのではないかと思われます。
ですが僕の上演台本は、金科玉条のごときものではなくて、スタッフとのミーティングや稽古場でどんどん変わっていってしまうものなので、あまりおせません。
さらにベースとなるテキストの存在です。
ベースとなるテキストは、戯曲でも小説でもエッセイでも論文でもなんでも構いません。
何か、僕を刺激してくれるフレーズがあればいいのです。
僕は、何もない状態からは書いたことがないし、書こうとも思っていません。
サンプリングとカットアップ、そしてリライトーーーこれが僕の手法であり、一番しっくりくる書き方なのです。
となると、サンプリング、カットアップ、リライトのやり方にスズカツ作品と言われる特徴があるのかもしれません。
特に重要なのは、サンプリングのベースとなるテキストの選択でしょう。
あらゆる本や文献を読めるわけではないので、ベースのテキストを選ぶのは「勘」です。
と言うことは、「勘」こそが僕にとって「不可欠なもの」なのかもしれない......

ここまで書いてきて、「ああ、オレって......」という気分ではありますが、今回はこのようなことでひとつ。

鈴木勝秀(suzukatz.)