大/早稲田攻社旗揚げ前夜

大/早稲田攻社旗揚げ前夜
1980年冬〜1981年春。
『鵞鳥と家鴨のブギウギ・ウギ』が終わり、1980年末の劇研総会終了とともに、早稲田「新」劇場が劇研を退会し、劇研のアンサンブル(劇研内劇団)はいよいよ早稲田新機劇一つとなった。
幹事長は、毎年前幹事長が次の幹事長を指名するのが劇研の慣例で、1980年の幹事長陰山さんは、早稲田新機劇の座付作家兼役者の鈴木講誌さんを指名した。
新機劇の主催者、吉澤"あやめ"耕一さんを幹事長に任命しなかったのは、民主主義派の陰山さんが、一人の人間に権力が集中しないように配慮したものと思われる。
劇研には、運営委員会というものがあって、幹事長を補佐する二人の書記が重要な役割を任されていた。
その二人は、来年度の幹事長候補であり、例年なら幹事長が所属していないアンサンブルを代表する二人が選ばれた。
だが、この時点でアンサンブルは1つしかない。
結果的に、次にアンサンブルを作りたい、と手を上げた人間が選ばれることとなった。
手を上げたのは、浅井と鴻上さんであった。
第三舞台フリークの方はよくご存知かもしれないが、鴻上さんはアンサンブルを主宰する意欲を持ちながらも、行動をともにしてくれる同志を求めていた。
そこに大高洋夫さんが、本人の言葉によると「つい」声をかけたところ、鴻上さんは待ってましたとばかりに食いついてきたそうである。
一方、浅井は僕に声をかけてから、九月会の残党を取りまとめようとしていたが、劇研をやめていく人、浅井と組みたくない人が多く、人数を集められずにいた。
同時に鴻上&大高チームも、人集めに苦戦していた。
さらに主演のS水さんが退会した新機劇の中では内部分裂が進行していて、幹事長になったばかりの鈴木講誌さんをはじめ、主力俳優、鴻上&大高コンビが次々と春の公演への不参加を表明していた。
劇研カオスである。
僕はうかうかしてられないなと感じ、同期を浅井グループに引き込む根回しをはじめた。
だが、岩谷は鴻上グループ参加、高泉淳子は新機劇残留を決めていたので、別々に活動することになった。
このあたりのことは、以前書いたのでくり返さない。http://d.hatena.ne.jp/suzukatzcloud/20110516/1305522061
岩谷とはLucky Rock Bell企画で一緒に活動するようになるのだが、淳子とは30年以上も前に出会い、とても近い場所で演劇をやり続けてきたにもかかわらず、未だに一度も芝居を一緒に作ったことがないのである。
先日、中山祐一朗のウエディングパーティーで久しぶりに淳子と顔を合わせ、その事実を淳子から再認識させられた。
「なんか一緒にやらない?」
という提案もされたのだが、その件についてはいずれまた。
僕としては前向きではある。
さて、最終的に浅井グループが10人、鴻上グループが6人をそれぞれ集め、春に試演会を行うことが了承された。
だが、まだアンサンブルとして認められたわけではない。
劇研の規約では、アンサンブルの正式認定は、まずそのグループが無料公演の試演会を行い、その公演内容が次の劇研総会で認められなければならないことになっていたのである。