早稲田新機劇:『黒く塗りつぶせ -55 Avenue-』
作:鈴木講誌/演出:吉澤耕一
1980年10月。
劇研では、秋からは各新人も所属アンサンブル(劇研内劇団)を決めて、それぞれのアンサンブルで活動することになる。
ところが、僕が入会した年は、九月会が春で解散し、「新」劇場は秋の公演終了後、劇研を出てプロの劇団になることを決めていたので、新人を受け入れないと宣言していた。
そうなると新人の受け皿となるのは、早稲田新機劇だけになる。
だが、出演の機会を増やすために複数のグループに分かれたのに、一つのアンサンブルに人間が集中しては意味がない。
また、やりたい芝居のテイストも選べなくなってしまう。
そこでこの年の新人は、来年の春に向けて新たなアンサンブルができることを前提として、来年まで所属を決めなくてもいいことになった。
もちろん、早稲田新機劇に入りたければ、それは許可された。
劇研のルールとして、各個人はアンサンブルを選ぶことができるが、アンサンブルは入団希望者を拒否することができないことになっていたのである。
「アンサンブルは3つ」というのが当時の劇研では慣例となっていたので、誰かがもう一つ作るのではないかと見られていた。
新人公演をアンサンブル旗揚げの準備と考えていた浅井は、新人公演終了後、すぐに僕に声をかけてきた。
僕は躊躇することなく、新アンサンブル旗揚げの考えに賛同した。
目指す芝居の方向が一番近いと感じていたからだ。
浅井も僕も、「ストーリー芝居」ではなく「構成芝居」がやりたかったのである。
早稲田新機劇には座付作家の鈴木講誌さんがいたし、「新」劇場には先輩が多すぎて、なかなか自分のやりたいことはできそうもなかったのだ。
だから、浅井と組んでアンサンブルを旗揚げすることが、もっとも有効に思えた。
だが、具体的に何かを始めるには、秋の公演が終了して、"合評会"という公演総括後の総会を待たなければならなかった。
というのも、公にアンサンブル旗揚げの準備を開始するには、総会での劇研在籍者の2/3の了承が必要だったからだ。
劇研は「早大劇研規約」に則って、民主的に運営されていたのである。
だから、それまでは表立って何かできるわけではなかった。
ほとんどの新人はモラトリアム化し、様子をうかがいながら誰が次のアンサンブルを作ろうとしているのかを探った。
既成の集団に後から入るより、旗揚げから参加したほうが、どんな場合でも立場は有利になるのだ。
意思表示をして早稲田新機劇に参加したのは、岩谷と淳子も含め数人に過ぎなかった。
そんな中で、早稲田新機劇:『黒く塗りつぶせ -55 Avenue-』(作:鈴木講誌/演出:吉澤耕一)の公演が行われた。
僕は照明の仕込みなどは手伝ったが、いわゆる兵隊(ただの労働力)としての作業は免除された。
それは、僕がラテン組(有能スタッフ候補)だったからだ。
おかげで、劇研に入会して以来、僕は初めて客観的に劇研の公演を見ることができた。
モラトリアム新人は、相変わらず公演のお手伝いをさせられるだけだった。
岩谷と淳子は、小さい役で不満を感じているようだった。
早稲田新機劇内部では、卒業を考える人と芝居を継続していきたいと思う人、また純粋にやりたい芝居の質の違いなどが浮かび上がり、なんだかギクシャクしていた。
春の公演当時の仲の良さを考えると、集団はかなり簡単に揺れ動くものであるのだなあ、と感じた。
今後、「新」劇場が抜けたら、新機劇が劇研の中心となるはずなのに、どうもそう簡単には行きそうもないようだった。
いずれにせよ、劇研は再編の時を迎えていたのである。