ニューラテンクォーター

指も治った頃、僕は劇研のエリートスタッフが毎年送り込まれる照明のバイトをすることになった。
場所は、火災で消失した、赤坂見附の今はなきホテル・ニュージャパンの地下にあった高級ナイトクラブ、ニューラテンクォーターである。
ここは、ロバート・ホワイトニングの「東京アンダーグラウンド」の舞台としても登場する、戦後政財界の闇の世界で産声をあげた、あの力道山が刺された由緒正しき超高級ナイトクラブで、一流の名士でなければ入れない特別な場所であった。
僕たちの仕事は、毎晩2ステージ行われるショーの照明である。
ショーの歴代出演者も一流ばかりで、サミー・デイヴィスJr、ニニ・ロッソ、パティ・ペイジ、カーメン・キャバレロなど、ラスベガスでもトップクラスのメンバーが名を連ねていた。
日本の芸能人でも、石原裕次郎勝新太郎、森進一、北島三郎和田アキ子尾崎紀世彦研ナオコ内山田洋とクールファイブなど、大御所クラスでないとステージには立てなかった。
ちなみに、森進一は毎年クリスマス・イヴとクリスマスの2日間は、ホテルのディナーショーを断って、毎年ラテンのステージに立ち続けた。
そのときの司会者は、森進一の付き人でもあった綾小路きみまろだった。
そして、当時人気絶頂のピンクレディが初めてナイトクラブのステージに立ったのもラテンのステージである。
客席も豪華で、政財界のトップクラスに混ざって、芸能界、スポーツ界の有名人がソファに並んでいた。
客で来ていた、生松田優作を初めて見たのもここである。
当時、劇研からラテンに派遣されていたのは、「新」劇場の美術プランナーのOさんと、吉澤耕一あやめさんと大/早稲田攻社の主宰者のAだった。
Oさんが事情があって辞めることになって欠員ができたので、僕に白羽の矢が立った。
あやめさんに連れられて初めて行ったときのショーは、日本とアメリカ両国で活躍した、「北国行きで」のヒット曲で知られる朱里エイコのショーだった。
その日は見てるだけでよかった。
ナイトクラブという特殊な環境と完全に大人の世界。
紳士と高級ホステスが薄暗いフロアで、声をひそめて、ひとときの非日常を楽しむ、本格的にヤバイ世界。
引き込まれるような感覚はなかったが、とても興味をそそられた。
ショーが終わって、照明のチーフN藤さんに声をかけられた。
「明日から来られる?」
「はい」
「じゃ、お願い」
翌日、再びあやめさんに連れられてラテンの従業員通用口へ行くと、「鈴木勝秀」と書かれたタイムカードがあった。
またしてもヤバイ道へ一歩足を踏み出したようだった。
( to be continued someday )