今回、「ディック的」という言葉が、まるで一般的に通用しているかのようにセリフの中に出てくる。
「ディック的」という言い方をすることによって、説明を拒否しているわけだ。
不親切だ。
でも、「ディック的」はどうしたって「ディック的」でしかなく、うまい説明を知りたいときは、山形浩生さんの本にでも当たってもらえるとありがたい。
『LYNX』を構想したとき、最初のテキストはウイリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』だった。
だが、脚本を書き始めた途端、それは「ディック的」なものに塗り替えられてしまった。
オガワは「ディック的」なのである。
そして、いくつになっても僕は「ディック的」なものに惹かれる。
田口トモロヲに50過ぎのオガワを託したいと思ったのは、僕の知る限りにおいて、最も「ディック的」存在だと思えたからである。
イタバシ「ディックが生きてたら、現在の状況をどう思いますかね?」
オガワ「きっと、当時と同じように悩んでいるでしょうね。こんな抑圧だらけの社会から逃れたいって……ネットだろうがクラウドだろうが、そんなものでは抑圧はなくならない。実際には、社会の抑圧は強まって、個人の孤立化は進んでいるわけですから。ディックはいつの時代に生きたとしても、孤立して、抑圧を感じて、不満と不安にとりつかれていたでしょうね」
イタバシ「わかります」
オガワ「でも、僕はそんなディックの世界観に共感してます」
こんなセリフが似合うのは、田口トモロヲおいて他にはいない。