大隈講堂裏とニューラテンクォーターの日々の始まり

新人公演も終わり、すでに劇研に入って半年が経過していた。
劇研での芝居作りにのめり込んでいたので、毎日早稲田まで通っていたにもかかわらず、授業にはほとんど出ていなかった。
当然、クラスに友人はゼロ。
授業で何をしているのかも、まったく知る由も無かった。
そこで、春の「新」劇場の公演で右手親指を怪我したことをいいことに、前期の試験はすべて受けずにすませた。
ギブスで右手を固められた姿で各教授の研究室を訪ね、「字が書けないので、試験を受けられません」と泣きついた。
授業にロクに出席していないことはバレバレだったが、ほとんどの教授は「じゃあ、仕方ないな。後期頑張ってよ」と言って許してくれた。
中には、「それなら、今ここで口頭で試験しようか?」と意地悪を言う教授もあったが、「今日は準備ができていませんので......」と言い訳すると、「じゃあレポートでも1本書いて提出しなさい。時間かければ、何か書けるんだろ?」と許してくれた。
フランス語の教授には、夏休みの宿題を出されたが、第二外国語にフランス語を選択していたにもかかわらず、未だに3以降の数も数えられなかったので、同期の高泉淳子に全部やってもらった。
その代わり、淳子の一般教養の授業に出て、「高泉淳子」と書いた出席カードを数回出した。
ギブスは夏に取れ、右手もどうにか使えるようになると、ニューラテンクォーターの照明アルバイトのレギュラーになった。
そして、ここで二十代のほとんどすべての夜を過ごすことになるのであった。
もちろんこのころは、そんなことは微塵も思っていなかったわけだが。
ニューラテンクォーターでは、毎晩、夜の8:30から1回目、10:30から2回目、それぞれ30分のショーをやる。
ショーの内容は、主に露出の多い外国人女性ダンサーによるレビューショーで、基本的に1ヶ月単位でチームが交代していた。
ムーランルージュのカンカンや、胸を出してるだけでロクに踊れないチームから、当時ロスの最先端のダンスショーを見せるチームまで、十年間であらゆるレビューを見た。
日曜日も営業はしていたが、そのときはよく知らない演歌歌手の歌謡ショーとか、アダジオダンスと呼ばれていたストリップショー、和風洋風入り交じったマジック、ジャグリング、バランシングアクトなど、様々なバラエティーショーで埋められた。
皿を落としまくる皿回しの中国人。
積み上げたイスの4段目で、必ず一度バランスを崩して客をハラハラさせる(それが芸)イギリス人。
口ではうまく説明できないのだが、一切やらせなしで、ステージに上げた客から、財布どころか腕時計とネクタイ(!)を盗み取る、自称スリの名人のイタリア人。
まだ超魔術になる前のMr.マリック、ナポレオンズなども出演していた。
当時、僕は横浜の実家から通学していた。
ラテンのショーが終わるのが毎晩11時で、家に着くのは必ず0時過ぎ。
それから風呂入って、テレビ見て、音楽聞いて、本読んで......寝るのはだいたい明け方。
午前中の授業に出られるわけもない。
なぜ母親はそこに気づかなかったのかは謎だが、特に何も言われることなく、昼前に起き出してくるのが当然になった。
そして、昼過ぎに大隈講堂裏の劇研に行って、夜の8時に赤坂見附に出勤......そんな生活が始まった。