第三舞台と大/早稲田攻社3

鴻上さんは新しいアンサンブルに第三舞台という名前をつけた。
Aは大/早稲田攻社と名づけた。
いつの時代でも、小劇場の劇団では、少々ふざけた名前をつけるのが主流のような気がする。
記憶は確かではないのだが、第三舞台も「劇団冷蔵庫」だとか、「劇団演劇協会」だとか、そんな名前が候補に上がっていたような覚えがある。
だが、悩んだ末に第三舞台=Third Stageとしたところは、見事な決断であったと思う。
わかりやすく、しかも簡潔にグループのメッセージが表現されている。
一方、Aは「大」と「早稲田」をアンサンブル名に入れ込むことに、妙なこだわりがあった。
松本零士の「元祖大四畳半大物語」からの拝借で、「大早稲田〇〇」にすることは、Aの中では決定事項であった。
僕は、どうにも気乗りがしなかったが、主宰者の意見は絶対であったので仕方ない。
「〇〇の部分に何を入れたらいいか、意見を聞かせてくれ」
そのとき僕は、たまたまそばにあった雑誌で「電電公社」という文字を見たので、「大早稲田公社はいかがなもんでしょう」と半ば冗談で提案した。
それが通ってしまった。
「公社の公を攻撃の攻にしよう」と言ったのは誰だったかすっかり忘れてしまったが、よりアングラっぽくなったのは間違いない。
さらに、大早稲田だと早稲田大と誤解されるから、表記の際に大と早稲田の間に「/」を入れることになり、さらにわけがわからなくなった。
人はなかなか、「大/早稲田攻社」という名前の集団に命をかけられるものではない。
少なくとも僕はそうだ。
ともあれ、1981年の春、第三舞台と大/早稲田攻社はともにスタートした。
そして、早大劇研は再び3アンサンブルに戻った。
早稲田新機劇、大/早稲田攻社、第三舞台
僕と吉田は攻社、岩谷は新機劇ではメインの役は遠いと考え、新機劇から第三舞台の旗揚げに参加し、高泉淳子は新機劇にとどまった。