第三舞台と大/早稲田攻社1

新人の夏、僕は右手親指の腱を断裂して、手術を受けたのち右手全体をギブスで固められていた。
ギブスが取れるのは、夏を過ぎる予定であったので、役者としての訓練はもちろん、力仕事もできない状態だった。
そこで、新人公演では舞台監督件音響、ということで参加した。
早大劇研の慣習として、新人は必ず一度は役者として舞台に立って、それから演出なりスタッフへの道へ進むことになっていたが、僕は例外的に最初からスタッフだったのだ。
劇研へ入ってくる90%は役者志望であって、スタッフワークができる人材は、とても重宝された。
のちに大・早稲田攻社を主宰することになる、新人公演の演出Aもスタッフ専門で、新人公演の準備、公演を通して、かなり気心知れる仲になった。
新人公演に関しては、また別の機会に触れることとして、秋の公演が終わると、劇研はにわかに揺れた。
なにせ、「新」劇場と九月会が抜けて、アンサンブルは新機劇ひとつになったのだ。
野心のある若者が、この機会を逃すはずがない。
というより、この機会を逃したら、次にアンサンブルを主宰するチャンスがやってくるまで、少なくとも2〜3年は待たなければならないのだ。
最初に動いたのは、新機劇で役者と舞台監督を兼任していた鴻上さんだった。
新機劇には、Sさんという役者兼任の座付き作家がいて、基本的にSさんのオリジナルを吉澤耕一あやめさんが演出する体制だった。
鴻上さんには、すでに自分のオリジナルを自分で演出する、という構想があり、チャンスを待っていた。
そして、鴻上さんには大高洋夫という、絶対の信頼がおける同士がいた。
大高さんは、面倒見のいい人で、僕も新人のころからよくしていただいた。
よく飲みに行ったし、高田馬場のアパートにも何度も泊めていただいた。
いつも明るく、エネルギーにあふれていて、ギターと暗算がずば抜けていた。
そんなある日、大高さんに「今日、うちで飲まないか?鴻上も来るんだけど」と誘われた。
もちろん、僕はOKした。
ただ、いつもとなんだかムードがちがっているのは感じていた。