「ルール、それとも自由」/『ルール』2024年5月
「ルール、それとも自由」
『十五少年漂流記』は、小学生の頃、初めて読んだジュール・ヴェルヌの小説だったと思います。
完訳本ではなくて、児童向けダイジェスト版の「世界の名作シリーズ」みたいなものでした。
子供にいきなり完訳本を読ませて、難しい!とか思われてそれ以降本を読まなくなったりしないように、やさしい言葉遣いで、物語の概要がするすると頭に入ってくるようなアレです。
小学校の図書館にはそういうのがたくさんあって、今ほどマンガもアニメもゲームもありませんから、手当たり次第にそういうのを読んだわけです。
だからといって、何か役に立ったのかと言われると、あのころ読んだマンガのほうが圧倒的に記憶に残ってるし、影響も受けているような気がします。
それでも『十五少年漂流記』の血湧き肉躍る少年たちの冒険譚に、大変興奮した覚えがあります。
というわけで、少年たちの冒険物語として舞台化するべく、『十五少年漂流記』の完訳本を読み始めました。
読み始めると、子供の頃に読んだダイジェスト版の印象とだいぶ違ったんですね。
登場人物は少年たちですが、まさに人間社会の縮図が描かれています。
無人島で生き抜くために、居住地を定め、ルールを制定し、選挙でリーダーを選び、無人島を擬似植民地化していく。
しかし、というか、思った通り共同体の中で意見の相違から対立が起こり、分断が発生する。
少年たちが知恵を絞ってサバイバルする成長物語ではあるものの、その少年たちの中にある、人種差別、選民思想、権力志向、独善的な人間の醜さが露わにされます。
さらにその分断の構図には、フランス人対イギリス人、という国家の対立まで入ってくるのです。
人間の愚かな面、醜い面が、思った以上に描写されているのです。
こんな少年たちの、こんな小さな共同体でも、覇権を争うのか──と暗澹たる気分になりました。
そこに、外敵(悪党のウォルストン一味)が現れます。
外敵が現れると少年たちは再び団結し、ついには戦争状態に入り、その外敵を殲滅してしまいます。
殲滅という言葉を使いましたが、少年たちは、相手がいくら悪党とはいえ、ウォルストン一味を殺してしまうのです。
正当防衛!悪党は殺してもいい!という価値観を強く感じました。
それはヴェルヌの属する、当時の西欧人の自己正当化であって、児童文学、少年娯楽小説とはとても思えませんでした。
爽快感などまるで感じません。
それでも僕は、これは舞台化する価値がある、と思いました。
昨年、芥川龍之介の『桃太郎』をもとに、『ピーチ』を作ったのと同じ思いでした。
どんなに文明が進んでも、人間は成熟しないよなあ、という思いです。
『ピーチ』では成熟しない人間の「正義」について考えましたが、今回は、タイトルにもした「ルール」についていろいろ考えました。
古今東西、人間はルールや法を制定しますが、それを必ず破るか、もしくは自分の都合のいいように解釈するようになりますよね。
中には、「ルールなんて破るためにあるんだ!」とか豪語する強者も出てくるわけです。
ルールが何かの抑止力になっているのは確かでしょうが、ルールによって罰せられることなんか気にするもんか!と自暴自棄になっちゃった人には、なんの意味もありません。
結局ルールは、守るやつは守るけど、守らないやつは守らないのです。
僕が『十五少年漂流記』で一番興味深かったのは、少年たちが、自分が元いた世界を真似て、コミュニティを作っていく過程でした。
結局、誰もが自分のことを自分で決めきれないので、誰かを頼り、自分の外側にルールを求め、一方でリーダーになって、その共同体に責任を取ろうとする。
なんと怠慢で臆病で傲慢なことだなあ、と感じましたが、これって今も少しも変わりませんよね。
一人で生きて行くのはしんどい、でも、誰かと生きていくこともまたしんどいのです。
でも、僕はなるべく自由でいたいです。
本日はご来場、誠にありがとうございました。
鈴木勝秀(suzukatz.)