「ルール、それとも自由」ロング・ヴァージョン

「ルール、それとも自由」

 

ご注意!

このスズカツ・コラムは、開演まであまりお時間がない場合は、観劇後にお読みください。

カントやフリージャズなど、芝居に直接関係ない話も出てきて、混乱してしまうかもしれません。

しかも、かなり分量もあります。

まずは、芝居をご存分にお楽しみください。

 

さて、今回はジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』です。

発表されたのは1888年です。

もちろん、いつものようにカットアップ、サンプリング、リライトを駆使し、さらに時代設定、年令設定も変更して上演台本を作ったので、これまたいつものようにまったくの別作品になりました。

それでも、やはり原典は『十五少年漂流記』です。

 

2022年に、ジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』を、リーディングで舞台化しました。

それが思いの外面白かったので──いつか演劇作品で再演したいと思ってます──ヴェルヌのほかの小説も舞台化できないかなと思って、『海底二万里』など数編を拾い読みしました。

そのなかで、舞台化したら面白そうだなと感じたのが、『十五少年漂流記』であったわけです。

 

十五少年漂流記』は、小学生の頃初めて読んだジュール・ヴェルヌの小説だったと思います。

完訳本ではなくて、児童向けダイジェスト版の「世界の名作シリーズ」みたいなものでした。

子供にいきなり完訳本を読ませて、難しい!とか思われてそれ以降本を読まなくなったりしないように、やさしい言葉遣いで、物語の概要がするすると頭に入ってくるようなアレです。

小学校の図書館にはそういうのがたくさんあって、今ほどマンガもアニメもゲームもありませんから、手当たり次第にそういうのを読んだわけです。

だからといって、何か役に立ったのかと言われると、あのころ読んだマンガのほうが圧倒的に記憶に残ってるし、影響も受けているような気がします。

それでも、『十五少年漂流記』の血湧き肉躍る少年たちの冒険譚に、大変興奮した覚えがあります。

というわけで、少年たちの冒険物語として立ち上げるべく再読しようと思い、『十五少年漂流記』の完訳本を読み始めました。

 

読み始めると、子供の頃に読んだダイジェスト版の印象とだいぶ違ったんですね。

登場人物は少年たちですが、まさに人間社会の縮図が描かれています。

無人島で生き抜くために、居住地を定め、ルールを制定し、選挙でリーダーを選び、無人島を擬似植民地化していく。

しかし、というか、思った通り共同体内で意見の相違から対立が起こり、分断が発生する。

少年たちが知恵を絞ってサバイバルする成長物語ではあるものの、その少年たちの中にある、人種差別、選民思想、権力志向、独善的な人間の醜さが露わにされます。

さらにその分断の構図には、フランス人対イギリス人、という国家の対立まで入ってくるのです。

人間の愚かな面、醜い面が、思った以上に描写されているのです。

こんな少年たちの、こんな小さな共同体でも、覇権を争うのか──と暗澹たる気分になりました。

そこに、外敵(悪党のウォルストン一味)が現れます。

外敵が現れると少年たちは再び団結し、ついには戦争状態に入り、その外敵を殲滅してしまいます。

殲滅という言葉を使いましたが、少年たちは相手がいくら悪党とはいえ、ウォルストン一味を殺してしまうのです。

正当防衛!悪党は殺してもいい!という価値観を強く感じました。

それはヴェルヌの属する、当時の西欧人の自己正当化であって、児童文学、少年娯楽小説とはとても思えませんでした。

爽快感などまるで感じません。

 

それでも僕は、これは舞台化する価値がある、と思ったのです。

昨年、芥川龍之介の『桃太郎』をもとに、『ピーチ』を作ったのと同じ思いでした。

どんなに文明が進んでも、人間は成熟しないよなあ、という思いです。

『ピーチ』では成熟しない人間の「正義」について考えましたが、今回は、タイトルにもした「ルール」についていろいろ考えてみました。

 

人間は、まれに一人で何年も生きることを強いられる場合がありますが、基本的に社会を作らないと生きていかれませんよね。

そして、社会にはルールが必須です。

なぜなら、他の動物と違って、人間はもともと悪い生き物なので、ルールが無ければ、それこそ無法地帯となり、それぞれが本能の赴くまま、全速力で悪へと向かって突っ走るからです!

だからルールを作って、みんなが幸せに暮らせる、平和で安全な社会を維持しなければならないのです!

とか言われてきたような気がするのですが、本当にそうなのでしょうか?

ルールがないと、人間はそんなにも好き放題、無秩序になるものなんでしょうか?

 

僕は、学生の頃、フリージャズを好んで聞いていました。

レコードで聴くだけではなく、足繁くライブハウスにも通いました。

大学の演劇研究会には所属していましたが、芝居よりライブハウスに行くことのほうが多かったかもしれません。

フリージャズに、いわゆる音楽的ルールはありません。

それぞれが自由に、好きなように音を出せばいいのです。

ジャズ・ピアニストの山下洋輔さんは「たとえシロウトでも、もっと言えばネコでもフリージャズはできる。だが、シロウトやネコはいい演奏ができても、それは一回限り。プロはそれを毎晩できる──」とエッセイに書いておられます。

で、そのプロの演奏は、各自が自由に、好き勝手にやっているにも関わらず、協調性があり、秩序が生まれ、強烈にグルーブする素晴らしいものだったわけです。

そのような演奏が成立するには、各プレーヤーが、そこで鳴っているおたがいの音をきちんと聴くことができ、それにきちんと反応できる演奏技術を持ち、今起きていること(音)を自分で考える力を有することが必要です。

ここで一番重要なのは、「自分で考える力を有する」という点です。

自分で考え、判断できなければ、どれだけいい耳を持ち、高い演奏技術があっても、ルールに頼らないと自由に演奏することはできないのです。

自由になるためには、自分で考え、判断する能力こそが必要なのですね。

 

当時の僕は、フリージャズにアナーキズムの理想型を感じていたのだと思います。

各自が自由なのに、エゴイズムに陥らず調和があり、共通の目的に向かって進むといったイメージです。

それは、ルールを制定して共同体運営を図ろうとした少年たちとは、正反対の姿です。

少年たちは、ルールを決めなければ──各自が自由に行動したら──極限状態を生き抜くことはできない、と思ったのでしょう。

しかしルールには、本当に強制力なんかあるのでしょうか?

 

古今東西、人間はルールや法を制定しますが、それを必ず破るか、もしくは自分の都合のいいように解釈するようになりますよね。

中には、「ルールなんて破るためにあるんだ!」とか豪語する強者も出てくるわけです。

ロシアのウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ攻撃も、我が国の裏金問題も、みんなルール違反ですよね。

サッカーの試合を観ていても、いかにルールを悪用するかばかり考えているようにすら感じることがあります。

PK狙いのダイブとか、マラドーナの「神の手」とかね。

具体的には言いませんが、僕だってルール違反なんかいくらでもします。

ルールが何かの抑止力になっているのは確かでしょうが、ルールによって罰せられることなんか気にするもんか!と自暴自棄になっちゃった人には、なんの意味もありません。

レッドカード覚悟でハンドはするし、詐欺は働くし、泥棒はするし、脱税はするし、殴るし蹴るし、銃撃するし、核ミサイルのボタンも押す、かも。

結局ルールは、守るやつは守るが、守らないやつは守らないのです。

つまりルールは、あってもなくても同じことなんじゃないかなあ、なんて思ったりする短絡的な人も出てくるわけです。

僕も、もしかしたらそうなのかもなあ、でも、そうなったら悪いやつら狡いやつらだけが得するわけで、それはそれでイヤだなあ、とか、なんだか考えが定まらないことになってしまいます。

やっぱり最低限のルールは必要なんでしょうか?

 

ところがここに、カントが登場します。

18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントです。

と言って、芝居の中にカントが登場するわけではありません。

僕のような、定まらない人間を導いてくれる先達として登場するのです。

僕は長らくニーチェニヒリズムに傾倒してきたのですが、ここ数年、どうもやっぱりカントだ、とか思うようになってきました。

もちろん僕は、ニーチェ哲学もカント哲学も、正確にはまったくわかってないシロウトです。

大学で哲学の授業にすら出たことはありませんし、偉い先生について学んだこともありません。

ですがシロウトなりに、やっぱりカントだよなあ、とか思いながら日々を送っています。

で、カントは次のように言うわけです。

 

「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」

 

これはカントの定言命法といわれる、カントの考えを簡潔にまとめたものです。

定言命法とは、「無条件に従うべき命令、義務」という意味です。

この定言命法はあくまで個人の行為に関するものであり、ルールの決め方そのものを問題にはしてません。

「格率」という言葉に馴染みがないと思いますが、これはカントの用語で「自分の行為を決める規則」、つまり自分のルールのことです。

ですから、間違いを恐れず思いっきりわかりやすくすると、次のようになります。

 

「自分自身でよーくよーく考えて、いつでもどこでも誰もが正しいと思う行動をしなさい」

 

ここで重要なのは、正しいかどうかの判断を自分自身で考えて下すものである、というところです。

判断の基準は、外部にあるのではなくではなく、自分自身の理性的な思考によって得られる。

つまり、誰かに教えられたり、強制されたり、さらに言えば、一神教の世界では絶対的なはずの、神の教えにさえ盲目的に従うのではなく、自分でよく考えて判断せよ、ということなんだと僕は理解しています。

しかし、自分の下した判断が、いつも正しいという保証はありませんよね。

いつでも自分が正しいと思っているとしたら、それはただ独善的だということに過ぎませんから。

当然、結果的に間違った判断をすることもあるわけです。

ですが、あらゆる問題に正解があるわけではないのですから、結果を恐れて自分で判断しないのは、カント的にはよろしくありません。

誰かに判断を任せる──カントはそれを未成年の状態と呼び、『啓蒙とは何か』の冒頭で以下のようなことを書いてます。

『啓蒙とは何か』が発表されたのは1784年ですから、いかに人間が成熟しないのかがよくわかります。

 

「ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。」

(啓蒙とは何か/イマヌエル・カント中山元:訳)

 

僕たちの周りは、暗黙的なものも含め、既に出来上がったルールで満ち溢れています。

そして共同体(コミュニティ/カンパニー)は、そのルールをどういうわけか押し付けてくる。

そのため誰かが何かをしようとすれば、そうしたルールに従うべきなのかどうかを問われる場面が多くなるでしょう。

そして、それは精神的にとても負担になる。

たとえば、演出をする際、戯曲がルールブックになった場合など、とても不自由で、僕はとても息苦しくなってしまいます。

日常的に、そのようなことは頻発してますよね。

でも、その共同体の一員でいるためには、ルールは守らないといけないんじゃなかろうか、とか思ってルール違反をする人をおたがいに監視するようになるのです。

ルールに守られているんだか、脅かされているんだか、わからなくなります。

でも、カントはこうも言ってます。

 

「他の誰からの命令を受けたわけでもなく、また見返りを求めることでもなく、ただそうあるべきだと自ら行うことこそが道徳的であり、人としてあるべき姿だ」

 

自由です。

カントは自由の人です。

僕は、カントの哲学の根幹は自由だ、と勝手に解釈してます。

カントにとって自由とは、好き勝手にやりたいようにやることではなく、自分のルールを作り、そのルールに従って行動するという、意志の自律そのものなのです。

意志の自律。

自分のことは自分で決める──僕はそれこそが自由だと思います。

 

さて、芝居からだいぶ離れてしまいました。

僕がヴェルヌの『十五少年漂流記』で一番興味深かったのは、流れ着いた島がどこにあったかではなく、少年たちのサバイバルでもなく、ウォルストン一味との戦いでもありませんでした。

彼らが、自分が元いた世界を真似て、コミュニティを作っていく過程でした。

結局、誰もが自分のことを自分で決めきれないので、誰かを頼り、自分の外側にルールを求め、一方でリーダーになって、その共同体に責任を取ろうとする。

なんと怠慢で臆病で傲慢なことだなあ、と感じましたが、これって今も少しも変わりませんよね。

 

一人で生きて行くのはしんどい、でも、誰かと生きていくこともまたしんどいのです。

ですが、すべては一人で生きることからスタートしているのは確かだと思うのです。

自分以外の誰かもしくは何かを信じることをやめて、まずは一人で生きてみてはどうでしょう。

そのうち仲間ができるかもしれない、できないかもしれない。

それじゃダメなのかなあ。

 

本日はご来場、誠にありがとうございました。

鈴木勝秀(suzukatz.)