「大隈夫人」その2

結局、僕があの夜見た女の正体を特定することはできなかった。
人間だったのか、それとも幽霊とか妖怪の類いなのか?
ただ、1980年当時、大隈裏には"女の幽霊"が出る、という噂は確実にあった。
その女の幽霊はいったい誰であるのか?
先輩方の中にも、いろいろな見解があって、その中で一番信憑性を感じさせる噂が、女の幽霊は大隈夫人、というものであった。

劇研広場の部室長屋の裏は、大隈庭園の一番奥に隣接している。
無断出入りを禁じるためと思われるフェンスが設置されていたが、大隈裏住人は長屋の屋根越しや建物とフェンスの柱の隙間などから、わりと自由に出入りしていた。
ZAZOUS THEATERのプロモビデオを作ったとき、夜中にイントレや照明、スモークマシーンを長屋屋根越しに庭園に運び込んで、幻想的な森のシーンを撮影したこともある。
その大隈庭園の一番奥、滅多に人が訪れることもない場所に大隈夫人の像があることは、あまり知られていない。
そこは木に囲まれた湿ったところで、太陽もほとんど当たらず日中でも薄暗い。
何度か拝見しに行ったことがあるが、清掃も頻繁に行われてはいないと思われ、顔も体も雨や鳥の糞で汚れ、まるで涙を流しているような表情になっていた。
その表情は、見る者にある悲しみを感じさせるとともに、悔しさ、恨みをも滲ませていて、不思議な恐さがあった。

早稲田大学創立者大隈重信銅像は、大学正門入ってすぐ、大隈講堂の正面にあるのは誰でも知っている。
大隈夫人の像も、当初は重信公の横に設置される案もあったらしいが、各方面からの反対があって、現在の位置に決まったそうである。
真相は確認していないので、その辺りに興味があるかたは、早稲田大学史でも調べていただきたい。

夫人像の視線の先には、大隈重信公の銅像がある。
二人の像は、おたがいに見つめ合うように設置されているのだ。
だが、その距離は遠いし、扱われ方にもだいぶ差がある。
だから、大隈夫人には報われぬ思いがあって、霊となってもあの辺りを彷徨っている、というのが語り継がれている噂だった。
その噂を後押しするのが、大隈夫人は生前、音楽 ー特にシャンソンー や芝居が大好きだったので、大隈講堂で催されるイベントや、劇団こだまや劇研の公演を見に来ているのだ、という説であった。
さらにダメ押しは、大隈夫人は赤い服が好きだった、という話だ。
実際、劇団こだまにも大隈夫人に関する同様の言い伝えがあると聞いたことがある。

というわけで、どうも僕が見たのは大隈夫人だったということになった。
だからと言って、僕が幽霊を見たということに納得したわけではない。
自分としては、鉄門の外に出たときに単に見失っただけで、あの女はあそこにトイレがあることを知っている誰かだった、ということで納得することにした。
あの女は幽霊ではないし、大隈夫人でもないし、多分、もう出くわすこともないだろう......
だが、このあと何年にもわたって続く僕と大隈夫人の遭遇は、まだまだ始まったばかりなのであった。

次の大隈夫人との遭遇は、前々回書いた『花嫁の夢は横島のドレス』の公演中の出来事である。
僕は初日でのいきなりのミスを挽回するつもりで、毎日黒ござに囲まれたオペ室で照明オペに励んでいた。
そんなある晩。
その日の芝居は出来がよく、客席の集中力も高かった。
ところが、その芝居を邪魔するかのように、クライマックスシーンに近づくとともに、テントの外からというか僕の後ろ側から、女の囁くような歌声が聞こえてきた。
明らかに芝居の邪魔になる。

テントの最大の問題点は、音漏れである。
屋根部分の分厚いテントシート以外、基本的にブルーシートと暗幕で覆われたテントでは、音はいくらでも漏れるし、入り込んでくる。
外の話し声は筒抜け。
足音すら、静かなシーンでは命取りになるほど響いた。
近くを救急車など通ろうものなら、演出家は発狂しそうなほどだった。
テント回りには新人が配置され、通行人を規制したりもした。
それでも、パーカッションの練習をイヤがらせのようにやるラテンアメリカ協会とは、相当険悪な関係になってもいた時期もあった。
なので、公演ごとに一升瓶を持って各部室を回り、公演中の物音に気をつけていただくようにお願いしていた。
もちろん近隣住民からは、劇研の出す大音量の音に対する苦情もあった。
劇研は元々大声で芝居をする伝統があり、どんなセリフでも大きく速く喋ることが求められていた。
ずっと隣の広場で怒鳴り合いが続くのである......たまったもんじゃない。
さらに、第三舞台の鴻上さんの主張で導入された大型スピーカーが爆音を出すことを可能にしたので、それはそれは迷惑だったことだろう。
今から考えると、近隣および長屋の住人すべてのみなさんが寛容だった。
この場で改めて感謝させていただく。
大学の街、ならではの得難い環境であった。

で、女の歌声である。
僕だけでなく、客席の一番後ろで見ていた演出のあやめさんももちろん気づいていた。
そしてあやめさんは我慢できなくなって、注意するためにテントの外へ出た。
だが、歌声は止まない。
なのに、あやめさんは戻って来た。
どういうこと?
そのまま芝居はラストシーンに突入し、いつの間にか歌声も消えた。
終演後、あやめさんと話した。

「どっかの女が最後の方ずっと歌ってませんでした?」
「それがさあ、オレも(歌を)やめさせようと思って外へ出たんだけど、誰もいないんだよ。で、テントの中に戻ったら、まだ聞こえてさ......スズカツにも聞こえてたんだ」
「外って言うより、オレの後ろって感じだったんですけど......」

と言った瞬間に、いきなり背筋がゾクっとなり総毛立った。

「スズカツが聞いたの、どんな歌だった?」
「知らない曲だったけど......シャンソンっぽい......」
「だよな!シャンソンだった、シャンソン......!」

大隈夫人はシャンソンが好き......

その3に続く。