「大隈夫人」その1

「大隈夫人」その1

「大隈夫人」に関しては、以前、舞台美術研究会OBの佐々木くんがまとめてくれた、『大隈裏 1967→1989 早大演劇研究会と舞台美術研究会の22年/大隈裏記録集編集委員会 (編集)』(http://honto.jp/netstore/pd-book_00040886.html)の中で一度書いたことがある。
だから、同じことのくり返しになるのを予めご了承いただきたい。
同時に記述に多少の違いがあっても、ご容赦いただきたい。
何せ、三十年も前のことで、記憶も曖昧になっているところがあるのは否めない。

個人的「大隈夫人」体験、その1。
早大劇研では、公演中、機材管理という名目で、交代でテントに寝泊まりすることになっていた。
基本的に、新人男子一人と上級生一人の二人がその任に当たる。
だが、たいていそれ以外にも泊まり込む人がいて、機材管理とはいうものの、公演祝いにいただいた酒とさんちゃんのおでん(夜になるとどこから大隈講堂前にやってくる激安屋台)で地味な宴会が夜毎開かれるのであった。
ときには防寒のために常備されていた、こたつを囲んで麻雀大会になることもあった。

"さんちゃん"についてもいずれ書かないといけないなあ。
さんちゃんの正体は不明だが、いろいろな噂があった。
ただ、常に客より飲んで酔っていたのは間違いない。

で、1980年11月の早稲田「新」劇場『鵞鳥と家鴨のブギウギウギ』の公演中のことである。
その夜、僕は機材管理の当番で、ニューラテンクォーターの照明バイトのあと、テントに泊まることになっていた。
その夜は「新」劇場主宰者、大橋宏さんの声がけで、テントで麻雀大会が開かれていた。
ラテンのバイトは23時までなので、テントに戻ったころには0時近くになるが、歩いて帰れる人、そのまま泊まるつもりになっている人が残っていた。
誰が残っていたのかは、あまり覚えていない。
とにかく、その晩は遅くまでテントに人が残っていたのである。
そして、2時だったか3時だったか、夜もかなり深くなったころ、11月のテントはとても寒いはずなのだが、誰からとはなく「なんだか暑いなあ」と言い出した。
たしかに暑かった。
すると、今度は急に強い風が吹き出した。
テントがバサバサと煽られ、イントレと鉄パイプのテントの構造が揺すられた。
それはもちろん自然現象であるはずなのだが、そこにいた全員が何か不気味なムードを感じた。
なんかヤバイって感じ。

「スズカツ、見て来い」大橋さんに命令された。
「え?」
「ロープが外れたら、テントが危ないだろ。そういうときのためのテント番なんだからな」
「でも……」
「いいから点検してこい!」

僕は、恐がりではないし、超常現象のようなものもほとんど信じていない。
暗闇にじっと潜んで誰かを待ち伏せしたりするのは、大好きである。
でも、この夜ひとりでテントの外に出るのは、あまりよろしくないようなムードがあった。
はっきり言ってイヤだった。
しかし、当時の劇研で先輩の命令は絶対である。
しかも、一番古株の「新」劇場の主宰者の命令である。
従わないわけにはいかない。
それに何があってもテントを飛ばすわけにはいかないので、テントの周りを一周してロープが外れていないかチェックして回った。
物陰だらけの夜の大隈裏は、水銀灯が一つあるだけで、とにかく薄暗くてよく見えない。
しかも生暖かい風はいぜんとして強く、テントがバサバサいう音、部室長屋のトタン屋根がバラバラいう音、隣の大隈庭園の木々が激しくザワザワいう音に聴覚を遮断されて、体感的に恐怖感を煽られた。
ロープのチェックを終えると、すぐにテント内部に戻った。

「点検しました。大丈夫です」
「鉄門のほうも見て来い」

鉄門というのは、大隈裏の出入口になっている鉄扉で、夜間は外部の人が入ってこれないように締め切られている。
鉄門を入ると正面に劇団こだま(木ヘンに霊)のアトリエがあり、そのとなりに大隈裏共同トイレ。
トイレから細い道を20mほど進むと、テントが立つ通称劇研広場があり、広場の最奥に劇研のアトリエ、その横にサークルが8つ入る部室長屋があった。

「鉄門ですか?」
「受付とか立て看も見て来いって」

イントレで作られた受付は、公演が終わると鉄門のすぐ内側に移動させることになっていた。
とにかく大隈裏には、そこら中に立て看板や、過去に使われた舞台装置の廃材が立てかけられたり、積み上げられたりしていて、強風に飛ばされる危険はあった。
しかたなく、再びテントの外に出た。
劇団こだまのアトリエに続く道が異様な感じに見えた。
そのときである。
明かりも点いていない共同トイレから、ピンク色の服を来た女が出てきたのだ!
夜中の2時とか3時である。
しかも、ここは鉄門の中。
大隈裏の住人でなければ、一般人や早稲田の学生ですらここにトイレがあることは知らないはずだし、こんな時間にこんなところに女が現れること自体、とんでもなく不自然なのだ。
背筋に寒気が走った。
女はこちらに振り返ることなく、鉄門のほうへ姿を消した。
僕は、真相を確かめたくて、女のあとをすぐに追った。
ほかのサークルの女子で、この近所に住んでいて、飲んだ帰りにアパートまで我慢できなくて、用を足しに来た……それが一番納得できる。
でも、だったらトイレの明かりくらい点けるんじゃないのか?
とにかく僕は急いでこだまのアトリエの前を鉄門のほうへ曲がった。
鉄門は閉まっていて、誰もいない。
鉄門の小さな通用口の扉を開けて、外へ出た。
鉄門の外は、正面に第二学館があるところで、第二学館と大隈講堂の間には、広い道が直線でかなり続いている。
大隈講堂周辺のことをご存じのかたはご理解いただけると思うが、僕が女を追った時間を考えると、その女がものすごいスピードで走ったとしても、必ずどちらかの方向に見えなくてはならないのである。
ところが……どこにも女の姿はない。
消えた、としか思えなかった。
再び背筋に寒気が走る。
ヤバイ……なんかすごくヤバイ……
僕は、走ってテントへ戻った。

「どうだった?」
「女が……トイレから出てきて、消えました」
「消えた?」
「すぐに追いかけて鉄門の外まで出たんですけど、もうどこにも見えなくて……」

そこにいた誰も「冗談だろ」とは言わなかった。
かわりに、ちょっとした沈黙が続いた。

「大隈夫人かもな」
「大隈夫人?」
「ああ……ずっといるみたいなんだよ、このへんに」

その2に続く。