100歳の少年と12通の手紙 2012年9月12日〜23日/東京グローブ座 ベルナール(クマのぬいぐるみ)の記憶。

100歳の少年と12通の手紙
2012年9月12日〜23日/東京グローブ座

ベルナール(クマのぬいぐるみ)の記憶。

エリック=エマニュエル・シュミット(阪田由美子:訳)の原作をプロデューサーから渡されて最初に思ったのは、リーディング公演だと思って見に来たらダンス公演だった、というものを作りたい、ということである。
そしてダンス公演というよりも、もっとバレエ公演に近づけたいと思った。
平面的な舞台美術(『CLOUD』に引き続き、二村周作門下、原田愛)と無駄を一切省いた照明(言わずと知れた倉本泰史)による美しい舞台。
そんな舞台上で読まれるべき「本」だと感じた。
演出プランは、すぐにプロデューサーの池田さんに受け入れられ、振付家の平山素子さんとバレエダンサーの中島周くんがキャスティングされた。
通常の稽古と違って、最初の10日くらいは、稽古場に一切セリフはなく、平山さんと周くんが踊り続ける。
「ワークショップのような形で始めたい」という平山さんの振付の過程は、僕の感覚にマッチしていて、とても居心地のいい稽古場だった。
飛び抜けて優れたダンサー二人が踊り続けるのを、ただ一人で見続ける贅沢。
そして、それがある形を成し、徐々に表現として進化しイメージが溢れ返り、見る側にも物語を生み出させる。
いい夏の経験であった。

ダンスが形になったころから、リーディング・キャストがだいたい1日1組のペースで稽古場に登場する。
それでも12組あるのだから、毎日やっても2週間はかかる。
結局のところ、ダンス稽古のはじめから考えると、僕と周くん、それにスタッフは、演劇公演とほぼ同じだけの拘束期間になるのだ。
ただ、リーディング・キャストにだけは、イジメのように稽古をさせない。
実際、もっと何度も読み合わせをしたい、と言ってこられるキャストがほとんどであったが、こちらの意図をご説明して納得していただいた。

リーディングは、稽古をし過ぎると、ライブ感がなくなってしまう。
稽古をするなら、きちんとセリフを覚えて、演技を肉体化して、芝居を作るべきだ。
リーディングは、演劇公演にとても似ているが、まったく別物なのである。
「本」ありき。
キャストは役作りなど考えず、ひたすら「読む」ことに集中することが求められる。
ライブに「読む」こと、これが重要なのだ。
そのために、僕はキャストに目でコミュニケーションを取ることを極力避けていただいた。
「本」を通じて、耳でコミュニケートするのである。
「読む」に足る本であれば、必ず読み手、聞き手をどこかに連れていってくれる。
誤解を招く言い方だが、演技は必要ないのである。
まず読み手がどっぷりと「本」の世界に浸かることが、最良のリーディングになる。
だから、役ではなく読み手個人の感情が出て構わない。
いや、むしろ個人の感情が溢れかえってしまったほうがいいのである。
だから、今回のキャストのみなさんすべてが、涙も鼻水も垂れ流し、グチュグチュになって読み続けたのだ。
演劇だったらおかしいけれど、リーディングではOKなのである。

音楽は、当初、僕が選曲した既製の楽曲を稽古場では使用して、前嶋さん(超多忙!)のオリジナルができてくるの待った。
実際には、あと数曲あったのだが、稽古の過程で曲数を減らして、コーラス(大嶋吾郎&久保田陽子!)で変化つけてもらった。
今回のコーラスは、歌ではなくまさに音響であり、僕はここにものすごく可能性を感じた。
イデアは固まったので、いずれ何らかの形で発表したい。
公演が始まると毎日が初日なわけで、かなりハードではあったが、ライブ感は高かった。
毎日違うのである。
これほど同じ「本」をやりながら、毎日違うものに出会えるのは、まさにリーディング公演ならではの醍醐味。
もっと多くのお客様に複数回見ていただけるようなシステムが、ぜひとも必要だなあ、と勝手に思ったりしたのだった。

よく「周くんは、神なのですか?それとも天使?」というご質問をいただいた。
僕は、自作を説明したり解説したりするのは、あまり得意ではないので、そんなときは「周くんはベルナールです」と答えておいた。
僕が作ろうとしたのは、ベルナール(クマのぬいぐるみ)の記憶である。
客入れ最中の情景は、入院患者のいなくなった病室である。
ベッドからシーツも布団もなくなり、キャビネットの上にも花も水もプレゼントのおもちゃもない。
あるのは、持ち主のいなくなったクマのぬいぐるみだけである。
ベルナールはすべてを見ていた。
そして、オスカーが人生を生き抜いたことを知っている。
オスカーがベルナールを愛したように、ベルナールもオスカーを愛していた。
そんなことをイメージしていたのである。