<2013年8月19日の質問> *suzukatz作品のマストアイテムのひとつ「ホワイトノイズ」。 使い始めた理由と、その意義についてお聞かせください。

<2013年8月19日の質問>
*suzukatz作品のマストアイテムのひとつ「ホワイトノイズ」。
使い始めた理由と、その意義についてお聞かせください。

<おこたえ>

一番最初に「ホワイトノイズ」を使ったのは、『ラベルス』(1986年7月、大/早稲田攻社)だったと思います。
でも、あまり意識的ではありませんでした。
芝居中で砂嵐の画面を使うので、ホワイトノイズも流してみた、という感じ。
流してみたら、雨の音のように聞こえるし、拍手喝采のようにも聞こえるので、面白いなとは思いましたが深くは追求してません。
『ラベルス』でも、メインで使ったSEは、それまでと同じように「雨」でした。
ホワイトノイズに意味を見出して使うようになるのは、もう少しあとです。
『ラベルス』については、また別項を立てて書きます。

LYNX』でもホワイトノイズが出てきますが、あれも舞台上にテレビモニターがあって、そこから出る音の象徴としてホワイトノイズを使ってみようと思っただけです。
ですが、ここで大きな変化がありました。
それまでとは違って、『LYNX』から音響のプラン、SEの製作を井上正弘氏に依頼したということです。
『ラベルス』のときは、ラジオやテレビからそのまま録音したホワイトノイズでしたが、『LYNX』では井上正弘氏が"作った"ホワイトノイズですから、クオリティが全然違いました。
しかも劇場入りしてからは、スピーカーの数が違うから大音量で響くし、音像は動くし、複数の音源が絡み合うし、すっかり虜になりました。
つまり、井上さんの"作ったホワイトノイズ"が、僕にホワイトノイズを考えるきっかけを与えてくれたんだと思ってます。

意識的にホワイトノイズを使うようになったのは、『ウエアハウス』シリーズ二本目の『地下』(1993年8月、ジアンジアン)からです。
初演の『ウエアハウス』(1993年6月、SEED HALL)にもテレビモニターは出てきます、というか舞台美術が複数のモニターで作られていました。
当初は、ナム・ジュン・パイクみたいな映像作りをしたいと思ってました。
でも、技術もお金もなかったので、自宅で二台のビデオデッキを使って、様々な映画から女性のアップを編集して、その編集されたテープを物理的に汚したり傷つけたり、その上からさらに砂嵐の画面を録画して、何が映っているかよくわからないものが出来上がりました。
だから、初演の『ウエアハウス』でモニターに映し出されていたのは、"砂嵐"ではなくて"女の顔"だったのです。

しかし、2ヶ月後の『地下』では、モニターに映し出される画面は、"砂嵐"に変更しています。
初演をやって、すぐに変えたくなった記憶があります。
"女の顔"という特定されたイメージではなくて、見る人それぞれが思い浮かべる何か、もしくは何も見ていない、というイメージのほうが、作品に相応しいと思ったのです。
何より僕には、あの男が見ているものが、"女の顔"より"砂嵐"のほうが、断然わかりやすかった。
特定の「何か」が、ある人間をその人たらしめているのではない、と僕は考えるからです。
そしてあの『ウエアハウス』の男は、意識的に砂嵐を見て、ホワイトノイズを聞く男になり、いろいろと名前を変えて僕の作品に登場し続けています。

「ホワイトノイズ」は、信号であり人工的な音です。
にもかかわらず、それが僕にはいろいろな音に聞こえた。
日常音であり、廃棄音であり、象徴音であるし、心理音にも聞こえたのです。
まるでロールシャッハ・テストのように、聞き手の精神状態でどうにでも聞けるように感じました。
ホワイトノイズに何を聞くかは、聞き手しだい。
聞く人の数だけ、ホワイトノイズは何にでもなる。
ある意味「無限」を象徴しているように感じたのです。
以下のセリフは、実際には『地下』でカットした部分ですが、僕がどう感じたかを簡単に示しているので、ご紹介します。

チノ「……カイダさん、結構難しいこと考えているんですね」
カイダ「私が言いたいのは、難しいことじゃないんです。『ひとつの音に世界を聴く』って本知ってますか?誰が書いたか忘れちゃったけど。その中で琵琶の一音に世界を聴くんだ、みたいな話があるんですよ」(*『ひとつの音に世界を聴く』は、武満徹さんのエッセイです)
チノ「へえ」
カイダ「琵琶のビィーンって音に、世界のすべてがあるって話なんですけどね、私はホワイトノイズに世界を聴くって感じなんですよ。ズゥーって音にね」

これは僕にとって、大発見でした。
そしてこの考え方がが、高校生の頃、非常に影響を受けたリチャード・バックかもめのジョナサン』に結びついて、『ウエアハウス』のセリフになっていきました。

タナカ「完全なるものとは、限界を持たないもののことなんです。たとえば、リチャード・バックが言及している、完全なるスピードというものは、時速数千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜかと言えば、どんなに数字が大きくなっても、そこには限界があるからです。ですが、完全なるものは限界を持ちません。完全なるスピードとは、いいですか、それはすなわち、即そこに在る、ということなんです。わかります?」
アライ「禅問答みたいだな」
タナカ「これをご覧ください」

タナカ、タブレットを操作する。
砂嵐の画面が現れる。

カオル「何ですか?」
タナカ「砂嵐です」
カオル「砂嵐?」

全員、タブレットの砂嵐を見つめる。

タナカ「どうです?」
アライ「どうですって言われても……砂嵐は砂嵐だよ」
タナカ「もっとよく見てください」

タナカ、タブレットをアライに渡す。

タナカ「砂嵐とホワイトノイズは、一番身近な完全なるものなんです」
アライ「どういうこと?」
タナカ「簡単に言うと、あらゆる情報が詰まってるんです」
カオル「情報?」
タナカ「そう。それも存在する限りのすべての情報」

(『ウエアハウス〜circle〜』より)

僕はホワイトノイズを、世界の、いや、宇宙のすべての象徴と考えているのかもしれない。
もっと言えば、宗教的なものも感じているのかもしれない。
それはもしかすると「死」なのかもしれない。

そして、何より重要なのは、ホワイトノイズの音そのものです。
すべての周波数で同じ強度になるノイズですから、とにかくキレがいい。
僕の演出にとって、最も使いやすい音なんです。
セルロイド・レストラン』で始めた"編集された芝居"の作り方をするときには、照明のフラッシュとホワイトノイズは、不可欠なアイテムとなってます。

とにかく、稽古場ではほとんどのSEのかわりにホワイトノイズを流しています。
最初は雨の代わりに使い始めたのですが、最近では、「ここに何か音、もしくは音楽が入る」という記号としてもホワイトノイズを使うことが多いです。
そのホワイトノイズが、しだいに具体的な音や音楽に変わっていくことも、芝居の完成への過程です。

以前は、ホワイトノイズを60分カセットテープにびっちり録音しておいて、稽古場でいつでも出せるようにしていました。
現在は、ホワイトノイズを再生するアプリをタブレットに入れて持ち歩いてますが、稽古場では滝の効果音をホワイトノイズのかわりに使うこともあります。
ホワイトノイズの代わりに自然音を使うというのもおかしな話ですが、面白いことに、役者は滝の音とは思わずに、ほとんどの人がホワイトノイズだと思っています。

最近は、オリジナル作品の中で音楽そのものを使う数がどんどん減ってきています。
武満徹さんのおっしゃった「琵琶の一音」でやれるのが理想かもしれない。
もちろん、それは「静かな」という意味ではありません。
僕は「爆音」が好きです。

鈴木勝秀(suzukatz.)