右手親指1

舞台後方は、割れた酒瓶だらけだった。
細かくは覚えていない。
とにかく千穐楽が始まる前、そこで割れた酒瓶を素手で握ってしまった。
痛くもなんともなかった。
そこは暗がりだったので、外へ出ると、右手の親指の付け根から、今まで見たこともないほどの血が流れ落ちていた。
とてつもなくヤバイ状況になった、ということだけがわかったが、どうすべきか、まったく頭が回らなかった。
自分では軽く指を切ったくらいの感覚なのに、どうにも血が止まらないのである。
傷口をおさえて、タクシーで東京女子医大へ連れて行かれた。
だれか女性の先輩が付き添ってくれたのだが、どなただったかも定かではない。
その日は日曜日だったが、救急センターは受け付けてくれた。
まず、消毒され、出血を止めるために縫われた。
そのとき先生に「親指動かせる?」と聞かれたので動かそうとしたが、まるで動かない。
「う〜ん、腱が切れてるかもね」
「え?」
「でも、これだけの傷だから、しびれて動かないってこともあるから、とにかく明日、もう一度来なさい」
「腱が切れてるとどうなるんでしょうか?」
「手術して繋げることになるね」
「!」
僕は、懸命に右手親指を見つめた。
だが、親指は動く気配もない。
自分の指がまったく言うことをきかない。
とてつもなくヤバイ状況は完璧にヤバイ状況になっていた。